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加藤 忠広(かとう ただひろ)は、江戸時代前期の大名。肥後熊本藩の第2代藩主。 == 生涯 == === 相続と改易 === 慶長6年(1601年)、加藤清正の三男として生まれる。兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。 慶長16年(1611年)、父の清正が死去したため跡を継いだ。11歳の若年であったため、江戸幕府は加藤家に対して9か条から掟書を示し、「水俣城・宇土城・矢部城の廃止」「未進の年貢の破棄」「家臣に課せられる役儀の半減(役儀にかかる経費の削減、ひいてはその費用の百姓への転嫁を抑制する)」「支城主の人事・重臣の知行割は幕府が行う」ことを継承の条件とした〔稲葉継陽「加藤清正の歴史的位置」(初出:熊本県立美術館 編『生誕四五〇年記念展 加藤清正』(2012年)/山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)〕。後に一国一城制によって、鷹ノ原城・内牧城・佐敷城の廃止も命じられ、最終的には熊本城と麦島城だけの存続が許された〔上髙原聡「加藤領肥後一国統治期の支城体制について -一国二城体制の考察-」(初出:『熊本史学』92号(2010年)/所収:山田貴司 編著『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』(戒光祥出版、2014年)ISBN 978-4-86403-139-4)〕。藩政は重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。支城の廃止と人事の幕府による掌握および合議制の導入は、清正時代に重臣が支城主として半独立的な権力を持っていたのを規制する意図があったと考えられている〔が、年若い忠広には家臣団を完全に掌握することができず、牛方馬方騒動など重臣の対立が発生し、政治は混乱したと言われている。また、細川忠興は周辺大名の情報収集に努めていたが、忠広の行状を「狂気」と断じて警戒していた〔東京大学史料編纂所 大日本近世史料 細川家史料 四 〕。 寛永9年(1632年)5月22日、江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使稲葉正勝より改易の沙汰があり、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤忠広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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