翻訳と辞書
Words near each other
・ 加藤敏 (音響監督)
・ 加藤敏夫
・ 加藤敏幸
・ 加藤敬三郎
・ 加藤敬二
・ 加藤敬二 (俳優)
・ 加藤敬二 (競馬)
・ 加藤文
・ 加藤文三
・ 加藤文俊
加藤文太郎
・ 加藤文太郎記念図書館
・ 加藤文彦
・ 加藤文枝
・ 加藤文音
・ 加藤文麗
・ 加藤斌
・ 加藤新太郎
・ 加藤新平
・ 加藤於兎丸


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

加藤文太郎 : ミニ英和和英辞書
加藤文太郎[かとう ぶんたろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 

加藤文太郎 : ウィキペディア日本語版
加藤文太郎[かとう ぶんたろう]
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう、1905年明治38年)3月11日 - 1936年昭和11年)1月5日)は日本登山家大正から昭和にかけて活躍した。兵庫県美方郡新温泉町出身。兵庫県立工業学校夜間部卒業。
複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされる山岳界の常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残した。登山に対する精神と劇的な生涯から、小説(新田次郎著『孤高の人』、谷甲州著『単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝』)やドラマのモデル〔新田次郎は中央気象台に勤務していた頃、富士山観測所に交替勤務のための登山中に加藤文太郎と出会ったことがある。〕〔兵庫県出身の作家、谷甲州による「単独行者 アラインゲンガー 新・加藤文太郎伝」が「山と溪谷」2008年4月号から2009年12月号まで連載され、2010年9月15日に加筆された単行本が発売された。〕となった。
             

== 略歴 ==
1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂にて、加藤岩太郎・よねの四男として生を受ける。
1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後は郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務し、兵庫県立工業学校夜間部を卒業する。1923年(大正12年)頃から本格的に登山を始める。
当時の彼の住まいは須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。現在ではポピュラーとなった、六甲全山縦走を始めたのが、加藤文太郎である。非常に歩くスピードが速かった文太郎は、早朝に須磨を出て六甲全山を縦走し、宝塚に下山した後、その日のうちに、また歩いて須磨まで帰って来たという。距離は約100kmに及ぶ。
当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなった。
1928年(昭和3年)ごろから専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となる。1935年(昭和10年)、同じ浜坂出身の下雅意花子と結婚。
1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じる。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。
1990年(平成2年)、故郷の浜坂町に新田次郎文学碑が加藤文太郎を語る会を中心に建立される。作家の藤原てい(新田次郎夫人)が招かれ除幕された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「加藤文太郎」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.