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加藤 虎景(かとう とらかげ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。甲斐国都留郡上野原の国衆・上野原加藤氏の一族〔平山(2008)、p.316〕。都留郡上野原城主。甲斐武田氏の家臣。駿河守〔平山(2008)、p.316〕〔丸島(2015)、p.260〕。子に景忠(嫡男)、弥五郎昌久(六男、初鹿野忠次養子)など〔平山(2008)、p.316〕〔丸島(2015)、p.260〕。諱は『甲斐国志』所引の「里長ノ家記」によれば「虎景」とするほか、信邦とする説もある〔丸島(2015)、p.260〕。 == 略歴 == 『甲陽軍鑑』によれば、武田信虎・晴信(信玄)の二代にわたり仕えた。はじめ信虎に仕え、偏諱を受けて「虎景」(とらかげ)と名乗ったという。『甲陽軍鑑』によれば、武者奉行として若殿・晴信に兵法を指南していたという〔『山本勘助のすべて』(新人物往来社版、上野晴朗・萩原三雄)〕〔丸島(2015)、p.260〕。 信虎追放後は晴信の一字を受け「信邦」(のぶくに)に改名し、後から仕官してきた山本勘助(晴幸)とともに軍師的な存在として発揮したという。天文19年(1550年)の戸石城攻防戦では勘助と共に劣勢挽回に尽力。諸角虎定らを促し、逆襲を成功させている〔『山本勘助のすべて』(新人物往来社版、上野晴朗・萩原三雄著)による。〕。晴信が出家し信玄となった際、諱を「昌頼」に改めた。 「加藤家文書」によれば、、永禄4年(1561年)3月3日、越後国の上杉謙信の関東侵攻に際して、武田氏と甲相同盟を結ぶ相模国後北条氏の北条氏照が当麻(神奈川県相模原市)において上杉勢に対抗するため虎景に援軍として千喜良口(神奈川県相模原市)まで出兵することを要請しており、この時点で「駿河守」を名乗っている〔平山(2008)、p.316〕〔丸島(2015)、p.260〕。その後の動向は不明。『甲斐国志』によれば、法名は実山性心禅定門〔丸島(2015)、p.260〕。 第四回川中島の戦いの際、討死した勘助の首を持ち帰ったとされている〔『北越軍談』による。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤虎景」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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