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加藤栄吉 : ミニ英和和英辞書
加藤栄吉[かとう さかえ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [さかえ, はえ]
 【名詞】 1. glory 2. prosperity

加藤栄吉 ( リダイレクト:加藤榮吉 ) : ウィキペディア日本語版
加藤榮吉[かとう えいきち]

加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、77頁。〕- 1946年(昭和21年)8月1日〔外山(1981年)、214頁。〕)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。
== 生涯 ==

=== 出自と軍歴 ===
1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる〔。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、106頁。〕。
1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。海軍士官として各種の海軍艦船勤務を経験し、1925年(大正14年)に海軍砲術学校高等科を卒業〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、145頁。〕。1926年(大正15年)4月に結婚し、妻との間に4人の子をもうける〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、149・153・160・177頁。〕。少佐の時に軽巡洋艦「多摩」の砲術長を務めたのを最後に、1931年(昭和6年)12月以降は要港部海兵団上海海軍特別陸戦隊などでの陸上勤務中心となる。日中戦争開始後の1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)には、中国方面の陸上部隊で頻繁に転任しつつ従軍した。1940年(昭和15年)1月から1941年(昭和16年)9月にかけての大湊要港部参謀勤務時には、日本陸軍津軽要塞司令部参謀や北部軍参謀を兼務している〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、171-172頁。〕。
太平洋戦争勃発時に大佐となっていた加藤は、戦争前半を横須賀海軍警備隊参謀・横須賀第一海兵団副長・同教頭として日本本土で過ごす。1943年(昭和18年)9月5日に新設の第87警備隊司令へ任じられ、以後はブーゲンビル島北部ブカ島地区の守備を担当した〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、180頁。〕。加藤の指揮下兵力は7000人以上あったが、警備隊の約1000人と若干の陸軍部隊だけが本来の地上戦闘要員で、残りの約6000人を海軍設営隊などの非戦闘員が占めていた。加藤は乏しい戦力でブカ地区の海軍飛行場を守備し、侵攻してきたオーストラリア軍を迎撃、ポートン桟橋の戦いen)などでオーストラリア軍に手痛い損害を与えた。食糧や医薬品の不足もあって多数の死者を生じながら、終戦の日までブカ地区を保持した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eikichi Kato 」があります。




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