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加藤 榮吉(かとう えいきち、1897年(明治30年)1月10日〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、77頁。〕- 1946年(昭和21年)8月1日〔外山(1981年)、214頁。〕)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校46期で、最終階級は大佐。ブーゲンビル島の戦いで島の北部を固守した。住民殺害を命じた戦争犯罪の有罪判決を受け、死刑となった。 == 生涯 == === 出自と軍歴 === 1897年(明治30年)に会津若松市に住む商人の家に5男として生まれる〔。尋常小学校3年生の時に、仙台市で私塾の育英塾を開いていた15歳年上の次兄の利吉の下へ、母と三兄の利喜松とともに移り住む。その後、利吉の養子として育てられ、立町尋常高等小学校2年から東北学院普通科(後の東北学院中学部)3年に編入し、卒業〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、106頁。〕。 1915年(大正6年)9月に海軍兵学校へ入り、46期で卒業。海軍士官として各種の海軍艦船勤務を経験し、1925年(大正14年)に海軍砲術学校高等科を卒業〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、145頁。〕。1926年(大正15年)4月に結婚し、妻との間に4人の子をもうける〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、149・153・160・177頁。〕。少佐の時に軽巡洋艦「多摩」の砲術長を務めたのを最後に、1931年(昭和6年)12月以降は要港部・海兵団・上海海軍特別陸戦隊などでの陸上勤務中心となる。日中戦争開始後の1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)には、中国方面の陸上部隊で頻繁に転任しつつ従軍した。1940年(昭和15年)1月から1941年(昭和16年)9月にかけての大湊要港部参謀勤務時には、日本陸軍の津軽要塞司令部参謀や北部軍参謀を兼務している〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、171-172頁。〕。 太平洋戦争勃発時に大佐となっていた加藤は、戦争前半を横須賀海軍警備隊参謀・横須賀第一海兵団副長・同教頭として日本本土で過ごす。1943年(昭和18年)9月5日に新設の第87警備隊司令へ任じられ、以後はブーゲンビル島北部ブカ島地区の守備を担当した〔加藤榮吉海軍大佐殉国刊行会(1997年)、180頁。〕。加藤の指揮下兵力は7000人以上あったが、警備隊の約1000人と若干の陸軍部隊だけが本来の地上戦闘要員で、残りの約6000人を海軍設営隊などの非戦闘員が占めていた。加藤は乏しい戦力でブカ地区の海軍飛行場を守備し、侵攻してきたオーストラリア軍を迎撃、ポートン桟橋の戦い(en)などでオーストラリア軍に手痛い損害を与えた。食糧や医薬品の不足もあって多数の死者を生じながら、終戦の日までブカ地区を保持した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤榮吉」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Eikichi Kato 」があります。 スポンサード リンク
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