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加藤磯足 : ミニ英和和英辞書
加藤磯足[かとう いそたり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [いそ]
 【名詞】 1. beach 2. shore 3. seashore 
: [あし]
 【名詞】 1. foot 2. pace 3. gait 4. leg 

加藤磯足 : ウィキペディア日本語版
加藤磯足[かとう いそたり]
加藤 磯足(かとう いそたり、延享5年1月23日1748年2月21日) - 文化6年10月12日1809年11月19日))は江戸時代中期の国学者尾張国美濃路起宿本陣十一代目。幼名は梅之助、後に要次郎。通称は右衛門七、隠居後に寿作。別号に石桟、河之辺乃翁。俳号は磊石。本姓は藤原氏
== 生涯 ==
母方林家の日記によれば、延享5年(1748年)1月23日午刻、尾張国中島郡起村下町(愛知県一宮市起字下町199-12〔起宿本陣及び問屋場跡として一宮市指定文化財。〕)で代々本陣問屋場を務める加藤右衛門七家に生まれた〔服部敏良「加藤磯足の研究 上・下」『芸林』第24巻第4,5号、1973年〕。しかし、磯足自身は後年延享4年(1747年)11月15日生と称しており、一年鯖を読まねばならない事情があったと思われるが、詳細は不明である〔。
明和元年(1764年)、朝鮮通信使が起本陣に宿泊した際、通信使南秋月と藩儒磯谷滄州が詩を論じ合う所に立ち会って感銘を受け、学問を志したと伝えられる〔。
明和7年(1770年)、父の死去に伴い、起宿本陣十一代目として加藤右衛門七を名乗る〔。本陣には各地の大名や、鷹狩のため尾張藩徳川宗睦が投宿したため、磯足は和歌を献上するなどしてもてなした〔。安永2年(1773年)、本陣宿泊中急病により死去した陸奥福島藩板倉勝行を看取った際、献身的な介護を感謝され、板倉家には御目見を許され、また度々返礼を受けた〔。
安永頃、名古屋で名声を高めていた歌学者田中道麿に入門した〔。
家業を継いだ頃、尾張藩では藩主徳川宗睦の下藩政改革が断行されており、磯足も村法改正や貧民救済などを通じて村内の改革に取り組んだ〔。天明元年(1782年)尾張藩に赴任した細井平洲の教化活動に共鳴し、天明2年(1782年)1月入門し、起村に講演に招いた〔。また、周辺の村々と協力し、長年地域を苦しめてきた木曽川の治水を自普請で行った〔。
しかし、次第に農民の生活向上に直結しない儒教的な教化活動に対し疑問を抱くようになり、藩に「磯足内達書」と呼ばれる意見書を度々提出して減税を訴えるも聞き入れられず、現実の社会問題解決よりも、専ら学究的な関心を抱いていくようになる〔。
天明4年(1784年)の道麿死去後、名古屋の道麿門人は道麿の師本居宣長に次々と入門していった。磯足も、寛政元年(1789年)3月21日名古屋本町四丁目書林藤屋吉兵衛方で宣長の講義を聴講し、門下に入った〔。寛政2年(1790年)2月下旬には、松坂に宣長を訪ねた〔。寛政5年(1793年)4月15日には宣長一行を墨俣宿で出迎え、自宿に迎えた〔。
俳句にも興味を持ち、加藤暁台に入門し、趣味の囲碁に因み俳号を磊石とした〔。
寛政10年(1798年)12月、代官小山清兵衛に隠居を願い出、寛政11年(1799年)2月29日許可され、寿作と名乗った〔。
享和元年(1801年)10月4日、関宿での歌学講義から帰郷した際、宣長の病気を知り、松坂へ参じたが、看取ることはできなかった〔。同年、宣長の後継本折春庭に入門した〔。
文化6年(1809年)11月12日死去〔。村内本陣山(一宮市起字本陣山)に葬られ、松が植えられたが、墓碑は建てられなかった〔。法名は貞西〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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