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加藤秀俊 : ミニ英和和英辞書
加藤秀俊[かとう ひでとし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius

加藤秀俊 : ウィキペディア日本語版
加藤秀俊[かとう ひでとし]
加藤 秀俊(かとう ひでとし、1930年昭和5年)4月26日 - )は、日本の評論家社会学者文明論・メディア論・大衆文化論などで有名。1989年平成元年)に外務大臣賞1996年(平成8年)に郵政大臣賞を受賞。
== 来歴・人物 ==
東京府豊多摩郡渋谷町に生まれ、東京府東京市渋谷区及び世田谷区下北沢で育つ。仙台陸軍幼年学校、旧制東京都立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)4年修了を経て、1953年(昭和28年)東京商科大学(現一橋大学)を卒業(南博ゼミナール)。南は、歌舞伎関係者と「伝統芸術の会」を作って研究を行っており、歌舞伎の観客調査や、歌舞伎の脚本の内容分析などを行う。同大研究科に進学も中退。1976年(昭和51年)社会学博士(東洋大学)。
辰濃和男は大学の語学クラスの同級生。また伊東光晴らとともに新聞部で『一橋新聞』の編集に携わる。また、南が創設者の一人であった「思想の科学研究会」にも入会。またアルバイトで『映画評論』の編集も行い、佐藤忠男と知り合う。
青蘭女子商業高等学校で教鞭(西洋史)をとった後、1953年(昭和28年)京都大学人文科学研究所助手採用試験を受験。面接の結果は松尾尊兌(後に京大教授)に次ぐ第2位で不合格のはずだったが、松尾の健康上の問題等から助手に採用される。
1954年(昭和29年)、ハーバード大学に留学。ヘンリー・キッシンジャーデイヴィッド・リースマンらに学ぶ。
1955年(昭和30年)、リースマンの転勤についていきシカゴ大学へ。1959年(昭和34年)には、スタンフォード大学コミュニケーション研究所研究員になり、ウィルバー・シュラムのもと「国際コミュニケーション」の研究を行った。同年帰国するが4年後の1963年(昭和38年)から1年間、交換教授としてアイオワ州グリネル大学で教鞭をとる。そこでの一年の経験は『アメリカの小さな町から』という本にまとめられている。
助手就任後は、他大学・他学部からの誘いを断り続け「大助手」と呼ばれる。当時は「京大人文研」の黄金時代であり、今西錦司桑原武夫藤岡喜愛川喜田二郎中尾佐助伊谷純一郎上山春平岩田慶治飯沼二郎和崎洋一多田道太郎樋口謹一梅棹忠夫佐々木高明米山俊直谷泰山田稔高橋和巳らと交流し、自由な学際的な研究や、緻密なフィールド・ワークを体験する。特に加藤は梅棹、川喜田、多田、藤岡、佐々木、米山と親交が深くなり、米山とは共著で『北上の文化―新遠野物語―』を出している。また産経新聞に勤務時代の司馬遼太郎とも知り合う。
1967年(昭和42年)には、梅棹忠夫小松左京林雄二郎川添登と「未来学研究会」を結成。1967年(昭和42年)、中山伊知郎を会長に「日本未来学会」を結成し、1970年(昭和45年)には「国際未来学会議」を日本で開催した。
また「未来学研究会」の仲間と「万国博を考える会」も結成し、大阪万博のテーマや理念を検討。1968年(昭和43年)にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。小松、粟津潔泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランもつくった。
1969年(昭和44年)1月京都大教育学部助教授(比較教育学)に就任したが、翌1970年(昭和45年)大学紛争で京都大を辞職。同年ハワイ大学東西文化センターのコミュニケーション研究所創設に伴い同所長就任要請を受けるが断り、行政的義務や時間的拘束のない同研究所の高等研究員に就任。
1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)にかけては今西錦司に誘われ、東レがスポンサーの「環境問題研究会」に藤井隆東畑精一松本重治らと参加。研究成果は『人類とその環境』(講談社)にまとめられた。
また、今和次郎が1972年(昭和47年)「日本生活学会」を創立すると川添登らとともに発起人として参加する。
また、1974年(昭和49年)、永井道雄が三木内閣の文部大臣に就任すると、私的諮問機関として「文明問題懇談会」が組織された。座長は桑原武夫、そして世話役は中根千枝と加藤。他に、藤井隆、中村元梅棹忠夫梅原猛吉川幸次郎ドナルド・キーンらが参加。その討議の内容は『歴史と文明の探求』上下二巻(中央公論社)にまとめられた。
その後は学習院大学教授、放送大学教授、中部大学教授・理事・学監・中部高等学術研究所所長・顧問、国際交流基金日本語国際センター所長、日本育英会(現日本学生支援機構)会長、日本ユネスコ国内委員会副委員長等を歴任。
中央公論社から著作集が出ている(1980-81年)。訳書にリースマン『孤独な群衆』など。
産経新聞正論」欄の論客でもあるが、いわゆる「正論路線」とは一線を画した内容を旨とする。
「音読みには漢字を、訓読みにはひらがなを使う」という原則のもと、漢字を多用しないため、文章にはひらがなが目だつ。その理由や表記の方針については、著書『自己表現』『なんのための日本語』(いずれも中公新書)に詳しい。
慶應義塾大学教授を務める加藤文俊は長男。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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