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加藤 秀俊(かとう ひでとし、1930年(昭和5年)4月26日 - )は、日本の評論家・社会学者。文明論・メディア論・大衆文化論などで有名。1989年(平成元年)に外務大臣賞、1996年(平成8年)に郵政大臣賞を受賞。 == 来歴・人物 == 東京府豊多摩郡渋谷町に生まれ、東京府東京市渋谷区及び世田谷区下北沢で育つ。仙台陸軍幼年学校、旧制東京都立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)4年修了を経て、1953年(昭和28年)東京商科大学(現一橋大学)を卒業(南博ゼミナール)。南は、歌舞伎関係者と「伝統芸術の会」を作って研究を行っており、歌舞伎の観客調査や、歌舞伎の脚本の内容分析などを行う。同大研究科に進学も中退。1976年(昭和51年)社会学博士(東洋大学)。 辰濃和男は大学の語学クラスの同級生。また伊東光晴らとともに新聞部で『一橋新聞』の編集に携わる。また、南が創設者の一人であった「思想の科学研究会」にも入会。またアルバイトで『映画評論』の編集も行い、佐藤忠男と知り合う。 青蘭女子商業高等学校で教鞭(西洋史)をとった後、1953年(昭和28年)京都大学人文科学研究所助手採用試験を受験。面接の結果は松尾尊兌(後に京大教授)に次ぐ第2位で不合格のはずだったが、松尾の健康上の問題等から助手に採用される。 1954年(昭和29年)、ハーバード大学に留学。ヘンリー・キッシンジャー、デイヴィッド・リースマンらに学ぶ。 1955年(昭和30年)、リースマンの転勤についていきシカゴ大学へ。1959年(昭和34年)には、スタンフォード大学コミュニケーション研究所研究員になり、ウィルバー・シュラムのもと「国際コミュニケーション」の研究を行った。同年帰国するが4年後の1963年(昭和38年)から1年間、交換教授としてアイオワ州グリネル大学で教鞭をとる。そこでの一年の経験は『アメリカの小さな町から』という本にまとめられている。 助手就任後は、他大学・他学部からの誘いを断り続け「大助手」と呼ばれる。当時は「京大人文研」の黄金時代であり、今西錦司、桑原武夫、藤岡喜愛、川喜田二郎、中尾佐助、伊谷純一郎、上山春平、岩田慶治、飯沼二郎、和崎洋一、多田道太郎、樋口謹一、梅棹忠夫、佐々木高明、米山俊直、谷泰、山田稔、高橋和巳らと交流し、自由な学際的な研究や、緻密なフィールド・ワークを体験する。特に加藤は梅棹、川喜田、多田、藤岡、佐々木、米山と親交が深くなり、米山とは共著で『北上の文化―新遠野物語―』を出している。また産経新聞に勤務時代の司馬遼太郎とも知り合う。 1967年(昭和42年)には、梅棹忠夫、小松左京、林雄二郎、川添登と「未来学研究会」を結成。1967年(昭和42年)、中山伊知郎を会長に「日本未来学会」を結成し、1970年(昭和45年)には「国際未来学会議」を日本で開催した。 また「未来学研究会」の仲間と「万国博を考える会」も結成し、大阪万博のテーマや理念を検討。1968年(昭和43年)にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。小松、粟津潔、泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランもつくった。 1969年(昭和44年)1月京都大教育学部助教授(比較教育学)に就任したが、翌1970年(昭和45年)大学紛争で京都大を辞職。同年ハワイ大学東西文化センターのコミュニケーション研究所創設に伴い同所長就任要請を受けるが断り、行政的義務や時間的拘束のない同研究所の高等研究員に就任。 1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)にかけては今西錦司に誘われ、東レがスポンサーの「環境問題研究会」に藤井隆、東畑精一、松本重治らと参加。研究成果は『人類とその環境』(講談社)にまとめられた。 また、今和次郎が1972年(昭和47年)「日本生活学会」を創立すると川添登らとともに発起人として参加する。 また、1974年(昭和49年)、永井道雄が三木内閣の文部大臣に就任すると、私的諮問機関として「文明問題懇談会」が組織された。座長は桑原武夫、そして世話役は中根千枝と加藤。他に、藤井隆、中村元、梅棹忠夫、梅原猛、吉川幸次郎、ドナルド・キーンらが参加。その討議の内容は『歴史と文明の探求』上下二巻(中央公論社)にまとめられた。 その後は学習院大学教授、放送大学教授、中部大学教授・理事・学監・中部高等学術研究所所長・顧問、国際交流基金日本語国際センター所長、日本育英会(現日本学生支援機構)会長、日本ユネスコ国内委員会副委員長等を歴任。 中央公論社から著作集が出ている(1980-81年)。訳書にリースマン『孤独な群衆』など。 産経新聞「正論」欄の論客でもあるが、いわゆる「正論路線」とは一線を画した内容を旨とする。 「音読みには漢字を、訓読みにはひらがなを使う」という原則のもと、漢字を多用しないため、文章にはひらがなが目だつ。その理由や表記の方針については、著書『自己表現』『なんのための日本語』(いずれも中公新書)に詳しい。 慶應義塾大学教授を務める加藤文俊は長男。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加藤秀俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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