|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 加 : [か] 【名詞】 1. addition 2. increase ・ 千 : [せん ち, ち] 【名詞】 1. thousand 2. many ・ 千代 : [ちよ] 【名詞】 1. (1) thousand years 2. (2) very long period 3. forever ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ 尼 : [あま] 【名詞】 1. (col) nun 2. bitch
加賀千代女(かが の ちよじょ、1703年(元禄16年) - 1775年10月2日(安永4年9月8日))は、俳人。号は草風、法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。 朝顔を多く歌っていることから、出身地の旧松任市では市のシンボル、合併後の現・白山市では市の花に選ばれた。白山市では市民の栽培も盛んで、同市が毎年開く千代女あさがおまつりで花の出来映えが競われている。白山市中町の聖興寺に、遺品などを納めた遺芳館がある。 == 生涯 == 加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたという。 12歳の頃、奉公した本吉の北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)から俳諧を学ぶための弟子となる。16歳の頃には女流俳人として頭角をあらわした。〔『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』184頁〕 17歳の頃、諸国行脚をしていた各務支考が地元に来ていると聞き、宿に赴き弟子にさせてくださいと頼むと、「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められる。千代女は俳句を夜通し言い続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明にけり」という句で遂に支考に才能を認められる。その事から名を一気に全国に広めることになった。 結婚したか否かについては説がわかれている〔外部リンク「千代女の里俳句館」、千代女の時代>千代女の年譜〕。結婚説では1720年(享保5年)、18歳のとき金沢の福岡某(一説に金沢大衆免大組足軽福岡弥八)に嫁ぐが、20歳の時、夫に死別し松任の実家に帰ったとする。結婚に際して、「しぶかろかしらねど柿の初ちぎり」という句を残したという伝もあるが、しかし「しぶかろか」の句は千代女の句集になく、結婚経験があるかどうかも確証はない〔坪内稔典「柿の木問答」『図書』岩波書店、2011年2月号、37-39頁。〕。 30歳の時、京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。1775年(安永4年)、73歳で没。辞世の句は、「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加賀千代女」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fukuda Chiyo-ni 」があります。 スポンサード リンク
|