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加賀屋文助 : ミニ英和和英辞書
加賀屋文助[かがや]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [か]
 【名詞】 1. addition 2. increase 
: [ぶん]
 【名詞】 1. sentence 
: [すけ]
 (n) assistance

加賀屋文助 ( リダイレクト:岩井商店 ) : ウィキペディア日本語版
岩井商店[いわい しょうてん]
岩井商店(いわい しょうてん)は、岩井勝次郎が明治29年(1896年)に創業した鉄鋼商社で、岩井財閥の中核企業である。後に日商鈴木商店系)と合併して日商岩井(現:双日)となった。
== 経歴 ==
岩井勝次郎の伯父であり義父となる岩井文助は、幕末舶来雑貨商として出発した。文久2年(1862年)、加賀屋の屋号で大坂京町の堀通りに舶来雑貨の売買仲介業を始めた。文助は天保13年(1842年)、丹波国桑田郡上平屋(現・京都府南丹市美山町上平屋)の農家に生まれ、嘉永6年(1853年)、大坂浄覚寺町唐物問屋加賀屋徳兵衛の店に奉公に出た。文助が21歳の時、徳兵衛の別家となり、独立開業した。
一方、文助の甥にあたる蔭山勝次郎は、文久3年、丹波国桑田郡旭村の農家に生まれた。勝次郎は明治8年(1875年)、文助方に奉公に出て、明治22年に文助の長女栄子と結婚して婿養子となり、蔭山姓から岩井姓となった。以後の加賀屋は、文助・勝次郎の共同企業の性格を持つにいたった。
ところが、文助と勝次郎の間には、事業観に相違があった。文助には旧来の商家に伝統的な「下町風」なところがあったのに対して、勝次郎にはより尺度の大きい、いわば「国土風」なところがあったため、明治29年(1896年)に勝次郎は独立営業に踏み切り、現在の大阪市中央区南久太郎町4丁目に店舗を設けた。これが岩井商店のはじまりで、大正元年(1912年)10月、加賀屋文助からの創業50周年を期に、株式会社岩井商店となり、さらに昭和18年(1943年)6月、政府(軍部)の指導により岩井産業株式会社と改められた。その後、日商と合併して日商岩井となった。証券コードは8056(現、日本ユニシス株式会社)
岩井商店が鉄鋼商社としての体制を確立したのは、明治の中頃から大正にかけてのことである。岩井商店が初めて金属を輸入したのは、明治29年にロンドンのダフ商会を代理店として、勝次郎が直貿易を開始した時期であった。その後ダフ商会のほかにも、ニューヨークのマークト商会からUSスチールの薄鉄板、軟鋼板、軟鋼棒、帯鉄などを輸入し、またハンブルクのホイエル商会からも針金を輸入した。岩井商店が鉄鋼商社として特色付けられた他の理由として、官営八幡製鉄所の製品を明治末年~大正期の頃から払い下げを受けるようになったことが挙げられる。
八幡製鉄所では明治38年(1905年)から鋼材の民間払い下げを開始し、明治末年の頃から三井物産を中心とした「三井組」や、関西の鉄鋼問屋によって株式会社大倉組を代表とした「大倉組」が結成され、鋼材の払い下げが実施された。当時大倉組の主力メンバーには、鈴木、岩井、安宅、岸本の関西有力商社のほかに、東京の森岡商店が加わっていた。岩井商店はこうした取次式の商社機能を基盤にして、次第に輸入品の国産化構想を具体化するに至った。それは輸入品を国産化することによって、外貨を節約し、国益の増進をはかることを意図したものであった。そうした経営理念によって、岩井では明治末年から大正期にかけて、つぎの各種の工業会社の経営に乗り出した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岩井商店」の詳細全文を読む




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