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加賀 昭三(かが しょうぞう)は、日本のゲームクリエイター。有限会社ティルナノーグ代表取締役。1999年8月までは任天堂のセカンドパーティ企業である株式会社インテリジェントシステムズ(以下IS)でディレクターを務めていた。 == 人物 == ISで海外市場向けのシューティングゲーム開発などを担当していたが、アルバイトで雇われていた学生3名と加賀曰く「同人ゲームのノリで」制作した『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』(ファミリーコンピュータ・1990年4月20日発売)がヒット〔しかし、NTT出版『ファイアーエムブレム・ザ・コンプリート』の「FE出生秘話」のインタビューにおいて加賀は、「発売当初はソフトの値崩れが激しく不評であったが発売半年後に一部のライターが好意的に取り扱ったり、遊んだゲームプレイヤーの口コミでファンが増えた」と述べている。〕し、一躍有名クリエイターの仲間入りを果たす。その後は1999年の『ファイアーエムブレム トラキア776』(スーパーファミコン)まで一貫して同シリーズのディレクターを務め、事実上「FEシリーズの生みの親」と認識されてきた。このゲームを好意的に取り入れたライターには、元ファミコン通信のライターであったジョルジョ中治〔エンターブレイン ファイアーエムブレム 暁の女神 パーフェクトガイドブック 「FE信者に贈る! おいらと『ファイアーエムブレム』と17年(空白あり)」より〕、漫画家の佐野真砂輝&わたなべ京〔角川書店『ファイアーエムブレム』単行本第1巻の後書き「AMUSE PRESS2」より〕と、ゲームクリエイターの桜井政博〔速報スマブラ拳!!アンケート集計拳 、Touth-DS.JP - 桜井政博さんが訊く『ファイアーエムブレム新・暗黒竜と光の剣』 第2回「リニューアルされた『暗黒竜と光の剣』」 より〕が挙げられる。 1999年8月にISを退社しティルナノーグを設立、かねてからFEフリークであったファミ通編集長(当時)浜村弘一の協力を取り付けてプレイステーション用ゲーム『エムブレムサーガ』の開発に着手する。ところが、ファミ通2000年1月21日号に掲載されたインタビューにおいて、『FE』シリーズと世界観を共有する作品であると示唆したことなどが問題視され、任天堂およびISから再三、ゲームの発売中止または内容の抜本修正を求められるようになる。結局、『エムブレムサーガ』は2001年4月に『ティアリングサーガ ユトナ英雄戦記』と改題され、同年5月にエンターブレインより発売されるが任天堂とISは『ティアリングサーガ』のゲーム内容にFEの著作権を侵害しているものが多数含まれていることおよび、FEシリーズと関連性があるかのような広告宣伝方法が消費者に誤認を与えているという2点を巡ってエンターブレイン・ティルナノーグ・加賀の3者を東京地方裁判所に提訴。2002年11月14日の一審判決では任天堂及びISの請求は全て棄却されたが、2004年11月24日の二審・東京高裁判決(2005年4月に最高裁で任天堂の上告を棄却。二審判決が確定。)は不正競争防止法違反について加賀ら3者の責任を認め、約7600万円の損害賠償が命じられた。この間、2004年5月31日の控訴審第9回審理では加賀本人が出廷し、ゲームの製作過程などについて証言を行っている。経緯と詳細はティアリングサーガに関わる問題を参考にされたし。 この裁判の結果、任天堂およびISからの内容証明を受けて発売までにゲーム内容を修正したこと、ならびに『FE』と『ティアリングサーガ』に共通して採用されている多くのゲームシステムは一般的なアイデアの域を出ず、著作権法違反は存在しないことが確定したのを受け、エンターブレインは2005年5月26日にプレイステーション2で続編『ベルウィックサーガ』を発売した。この作品のスタッフロールに加賀およびティルナノーグはクレジットされておらず、加賀はティアリングサーガ完成直後の時点で「隠居中」であるらしく、その後のはっきりした制作活動は不明であるなどという風説も流布された〔 以下の外部リンク先を参照。ティアリングサーガMAG「Dialy」 〕が、ファミ通ゲーム白書2006に『ベルウィックサーガ』の開発元としてティルナノーグが明記されており、また2008年には加賀昭三本人によって『ティアリングサーガ』および『ベルウィックサーガ』の数々の設定資料や続編の構想を著したブログ〔以下の外部リンク先を参照。「D'sノート」 〕を公開、『ベルウィックサーガ』が加賀の作品であることが確定した。 2012年3月14日、自身のブログ〔以下の外部リンク先を参照。「D'sノート」 〕上で、現場から引退していることを明らかにした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「加賀昭三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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