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勅使河原 宏 (てしがはら ひろし、1927年1月28日 - 2001年4月14日) は、日本の芸術家。草月流三代目家元。映画、いけばな、陶芸、舞台美術、オペラなど様々な分野で活躍した。妻は女優の小林トシ子。 ATG初の日本映画の監督であり、安部公房原作の作品群ではドキュメンタリータッチを基本にしたシュールレアリズム溢れる映像美で世界的にも評価された。 == 来歴 == いけばな草月流の創始者勅使河原蒼風の長男として東京で生まれる。同地の私立暁星中学校を経て、1944年、東京美術学校(現東京芸術大学)の日本画学科に入学。3年後の1947年に洋画科に移る。在学中からパブロ・ピカソや岡本太郎などの前衛芸術に傾倒し、安部公房や関根弘らによる前衛芸術の会「世紀」に参加。また、在学中に日本共産党に近づき、1951年の五全協以降の武力闘争路線のもとで山村工作隊に参加した。勅使河原は当時東京都小河内村に建設中だった小河内ダムの破壊工作を目指した小河内工作隊に配属された。工作隊のメンバーには、後の共産党国会議員津金佑近や、映画監督の土本典昭などがいた。東京芸大の学生だった勅使河原の任務は、奥多摩地域の農民向けに発行されたガリ版新聞に版画を刷り入れることであった。 卒業後の1953年、友人から美術映画『北斎』の企画を持ち込まれ、1955年に同作を監督したことから映画界に進出。亀井文夫の記録映画『砂川』や『生きていてよかった』、『世界は恐怖する』などの製作に協力したのを経て、木下恵介に師事した。後に松山善三、羽仁進、草壁久四郎、荻昌弘ら同世代の映画人とシネマ57を結成。1958年に集団実験映画『東京1958』を製作した。翌1959年に父蒼風に従って渡米。その際、16ミリカメラを持参し、旅行先で知り合ったプエルトリコ系のプロボクサーホゼー・トレスのトレーニングから試合までの様子。同年に短編ドキュメンタリー『ホゼー・トレス』として発表した。この間、アートシアター運動の中心人物としてその組織化に尽力した。 1962年、安部公房脚本のテレビドラマを映画化した自身初の長編劇映画『おとし穴』を監督。これがATG初の日本映画となった。同作は第15回カンヌ国際映画祭の批評家週間部門に出品された。1964年には勅使河原プロを設立。同年、再び安部と組み、砂の穴に閉じ込められた女と男を通じて人間の本質を描いた野心作『砂の女』を映画化。ブルーリボン賞と毎日映画コンクールの作品賞・監督賞、キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得。国外でもカンヌ国際映画祭審査員特別賞、サンフランシスコ映画祭銀賞を受賞し、アカデミー賞では監督賞と外国語映画賞にノミネートされた。国内外で絶賛された同作は、自他共に認める生涯最高の代表作となった。以降も安部と組んだ『他人の顔』(1966年)や『燃えつきた地図』(1968年)などが国際的に高く評価された。また、1968年にはアカデミー賞の審査員を日本人として初めて務めた。 1972年の『サマー・ソルジャー』以降は映画を離れ、福井県宮崎村の草月陶房で越前焼の作陶に打ち込んだ。その後、1979年に父が、翌1980年には2代目家元を継いだ妹の霞が相次いで死去し、同年に草月流3代目家元を継承。1984年にはスペインの建築家アントニ・ガウディを題材としたドキュメンタリー映画『アントニー・ガウディ』で映画界に復帰。1987年からは「草月シネマパーク」を再開した。1989年には久々の劇映画となる野上弥生子原作の『利休』を発表。モントリオール世界映画祭芸術貢献賞、ベルリン国際映画祭フォーラム連盟賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。1992年には富士正晴原作の『豪姫』を監督した。同作ではセットのいけばなも自作している。同年、紫綬褒章を受章。 2001年4月14日逝去。享年74。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「勅使河原宏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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