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勝幡城(しょばたじょう)は、尾張国の海東郡と中島郡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)に跨る勝幡にあった日本の城。稲沢市指定史跡。「勝幡城址」と「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の石碑と「文化財史跡勝幡城址」の木碑がある。日光川の嫁振橋には「勝幡城復元図」がある。 == 歴史 == 永正年間頃、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主の織田信定(その父・良信ともいう)が、尾張国の海西郡を手中に治めた際、大中臣安長の屋敷跡に勝幡城を築城したといわれる。 この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていたが、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれる。 天文元年(1532年)信定の跡を継いだ信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取ると、那古野城に移り、勝幡城に家臣の武藤雄政(武藤掃部)を城代として置いた。 天文2年(1533年)、公卿の山科言継は信秀から勝幡城に招かれ、その際に城の規模と出来栄えに驚いたと日記に記している(『言継卿記』)。このことから商業地の津島を支配下に置いた「織田弾正忠家」の経済力が窺える。 『尾州古城志』によると、天文3年(1534年)に信秀の嫡子・信長は、この勝幡城で産まれたと記されている。那古野城という説もあるが、近年研究家の間では勝幡城説が有力になってきている〔中日新聞2014年7月4日 信長生誕地「勝幡城説」 播磨中京大教授が愛西で講座 〕。 弘治元年(1555年)、信長は主家の大和守家を滅ぼして清洲城を奪取すると、拠点を那古野城から清洲城へと移し、城代の武藤掃部を尾張野府城へと移した。それにより次第に衰退して、やがて勝幡城は廃城となった。 昭和54年(1979年)櫓台とされる位置の3m地下から基石が発見され、愛西市佐織支所に保管されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「勝幡城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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