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勝見庸太郎プロダクション(かつみようたろう-、1926年 設立 - 1930年 活動停止)は、かつて京都に存在した映画製作会社である。松竹蒲田撮影所で監督となった俳優の勝見庸太郎が設立し、牧野省三のマキノ・プロダクションとの提携により、自らの主演・監督作を製作した。 == 略歴・概要 == 1926年(大正15年)の初め、松竹蒲田撮影所と喧嘩をして飛び出した主演俳優兼映画監督の勝見庸太郎は、京都でマキノ・プロダクションの監督となっていた弟の正義に説得され〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「勝見正義」の項(p.114-115)を参照。同項執筆は岸松雄。〕、松竹蒲田の「勝見一派」を引き連れて設立した〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「勝見庸太郎」の項(p.116)を参照。同項執筆は岸松雄。〕のが、この「勝見庸太郎プロダクション」であった。首尾よく牧野は勝見を受け入れ、専属とし、製作した作品はマキノ・プロダクションが配給した。 設立第1作は、勝見の監督・脚本・主演作品『恋の丸橋』であった。同作は、マキノ省三が総指揮を執り、勝見が「勝見黙笑」名義で脚本を書き監督し、弟の正義が監督補として支え、松田定次がカメラを回し、勝見自身がマキノの女優玉木悦子こと環歌子と共演した作品で、尺が15巻もある大作で、同年11月14日、マキノ御室作品の衣笠貞之助監督作『話』と同日に別系統で封切られた。 1927年(昭和2年)、21歳の無名の青年八田尚之を入社させている〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「八田尚之」の項(p.318)を参照。同項執筆は清水晶。〕。勝見は彼の才能を見抜き、翌1928年(昭和3年)3月、八田のオリジナルストーリーを採用して勝見が脚本を執筆して映画化、同年11月には、八田を脚本家としてデビューさせた。八田と勝見の関係は勝見の晩年までつづいた。また、名古屋のマキノ・プロダクション中部撮影所(所長・マキノ正博)で牧野が撮影を開始した『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に、「立花左近」役で勝見は出演、同作では一介の俳優として、マキノ作品に協力した。1927年の全作品と、1928年10月の『河内山と直侍』までは弟の正義が監督した。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が死去、没後50日を経た同年9月に牧野の長男・マキノ正博を中心とする新体制が発表されたが、勝見も八田もそこには名をつらねてはいない〔立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所 所員録 」の記述を参照。〕。しかしそれ以降、八田は勝見作品以上にマキノの現代劇の主力として、人見吉之助監督とのコンビを中心に19本を執筆し、勝見も同年内に5本の作品を製作、うち4本を監督した。 1930年(昭和5年)前半は作品を発表していない。7月1日に『メリケンジャプ』、7月20日に『海辺のローマンス』が公開されて、それ以降は活動を停止した。同社は25本の作品を残し、勝見はしばらく映画界を離れた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「勝見庸太郎プロダクション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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