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勝野金政 : ミニ英和和英辞書
勝野金政[かつの きんまさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [の]
 【名詞】 1. field 
: [きん]
  1. (n,n-suf) (1) gold 2. (2) gold general (shogi) (abbr) 
: [せい, まつりごと]
 【名詞】 1. rule 2. government 

勝野金政 : ウィキペディア日本語版
勝野金政[かつの きんまさ]

勝野 金政(かつの きんまさ、1901年4月9日 - 1984年1月13日勝野金政 年譜 040820 〕〔日本人粛清犠牲者リスト - 加藤哲郎ウェブサイト〕)とは日本の作家・思想家である。青年期パリ、モスクワに滞在中(1924~1934)フランス共産党員、ソ連共産党員として活動。スターリン体制告発の世界的先覚者。「日本のソルジェニーツィン」と称される。1930年コミンテルン執行委員会幹部会員・片山潜の私設秘書として活動中密告により突然GPUに逮捕される。ソ連刑法第58条第6項による5年の刑を宣告。
党中枢機関に無実を訴え続けながらラーゲリで服役。模範囚として3年半に減刑釈放されるがスターリン体制に幻滅し転向を決意。1934年7月モスクワ日本大使館に出頭。
両国の交渉により8月日本生還を果たす。帰国後執筆活動でソ連の実態を公表。1934年11月出版『赤露脱出記』はノーベル文学賞受賞作家ソルジェニーツィンの作品を30年前に先駆けるものである。スターリン体制下のラーゲルの実態を文学にした世界的先覚者が日本人・勝野金政であったことがソ連崩壊後見直され、再認識された。
ソ連崩後加藤哲郎、藤井一行両教授の粛清研究で、モスクワ在住ミハイル・スドー教授の協力を得てロシア国立社会政治史文書館(ルガスピ)の勝野金政関係ファイルを引き出し検証。1989年ソ連邦国家最高会議会令第1条適用により名誉回復決定が判明。1996年ロシア連邦最高検察庁より名誉回復証明書が親族に届く。1998年6月研究者と親族がモスクワ旧KGB公文書館を訪れファイル閲覧。2001年早稲田大学小野梓講堂にて「生誕100年シンポジウム」開催。2014年4月モスクワのソルジェニーツィン記念亡命ロシア人会館にて「勝野金政没後30年記念展」開催。2015年8月、関連資料をモスクワの国立グラーグ歴史博物館・Gulag History State museumに寄贈。遺言「インターナショナルヒューマニズムよ 永遠なれ!」は今日の世界に向けたメッセージであり祈りである。
== 生涯 ==

=== 共産党入党 ===
長野県木曽郡読書村(現南木曽町)に生まれる。島崎藤村とは旧知であり、若いころから文学に憧れた。1914年旧制愛知一中に入学。1919年早稲田大学に入学し、フランス文学ロシア文学を専攻する。在学中の1924年(大正13年)、フランスに留学、パリ大学で学び、フランス共産党に入党した。党の反軍雑誌『カザヌ(兵営)』を、平野義太郎を通じ、労働運動や共産党運動のレポートと一緒に野坂参三産業労働調査所に送ったりもした。蝋山政道との関係で知り合った平野を、勝野は党本部へ連れていったが、東京帝国大学助手として留学していた彼は入党しなかったという。
1928年(昭和3年)、パリ警視庁に逮捕され、「好ましからざる外国人として」、国外追放を命ぜられた。ドイツのフランクフルトに行き、フランス共産党本部に手紙を出してロシアに行きたいと希望した。許可がおりると、旧知のウィットフォーゲルの助言を得て、ベルリン共産党本部を訪問。そこで千田是也に会い、東大から来ていた国崎定洞有沢広巳とも知り合いになった。堀江邑一福本和夫もいた。ベルリンにはこうした「日本人赤色グループ」があった。
同年3月にモスクワに到着し、まず片山潜に挨拶に行き、佐野博高橋貞樹相馬一郎などに紹介された。元は著名な貴族の邸宅であったというモップル(国際赤色救援会)の宿舎に住むことになり、やがて全連邦共産党(のちのソビエト連邦共産党)に移籍する。講演や原稿料で生活していたが、「日本の若いコミュニストたちのイメージでは、ロシアこそは自分達の夢が実現した地上天国であったにちがいないが、実際に現地に行ってみると大変な違いだ」と、「割り切れない気持ちになることが多くなった」という〔勝野、1977年〕。勝野の入国当時、ソ連にいた日本共産党関係者がコミンテルンに対して、「ブルジョア出身で非労働者のうえ面識もない」という理由で勝野が国際レーニン学校東方勤労者共産大学に入学するのに反対するとともに日本に送還するべきだとする内容の文書を送っていたことがソ連崩壊後に明らかになっている〔勝野金政生誕100年シンポ - 加藤哲郎ウェブサイト〕。
半年後にモスクワ東洋学専門学校〔藤井一行「モスクワ東洋学専門学校」 によると、正式には「ナリマノフ記念東洋学専門学校」と訳される名称で、日本で刊行された文書では「東洋学院」「東方学院」「東洋大学」などと呼ばれることもある。〕で日本語と歴史を教えるようになり(佐野学も日本近代史を教えた)、陸軍大学の日本語教師で東洋学専門学校の講師をも兼ねていたアー・ジー・ポポーフと知り合い、彼の家に招かれて、話を聞くようになるが、その2ヵ月ほどのちに、ポポーフ教授が反革命容疑で検挙された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「勝野金政」の詳細全文を読む




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