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勧修寺流(かじゅうじりゅう、かんじゅじりゅう)は、藤原北家高藤流の公家(公家貴族)の一流である。 == 概要 == 「勧修寺」の寺名とともに、今日では「かじゅうじ」と読むのが一般的だが、中世の日記等では「くわんしゆし」との仮名表記も散見され、「かんじゅじ」とも読まれていたことがうかがわれる〔たとえば『お湯殿の上の日記』天正十七年(1589年)七月十五日条「くわんしゆ寺大納言」「くわんしゆし御いたゝきあり」、同延宝九年(1681年)八月八日条「ひろうくわんしゆし」など。〕。なお、勧修寺流の中に勧修寺家も存在するが、嫡流とされている家は吉田家→甘露寺家の流れである。 勧修寺流の祖とされているのは、高藤の子である藤原定方である。定方が山科に勧修寺を建立したことから、この一門の名前となったためである。藤原氏嫡流から分かれたのは藤原良房の異母弟良門からである。 勧修寺流には堂上家として、甘露寺(旧名吉田)・清閑寺・万里小路・中御門(なかのみかど。羽林家の中御門家とは別家)・勧修寺・坊城・穂波・葉室・池尻・梅小路・岡崎・芝山・堤などの各家がある。 勧修寺流は、山科の勧修寺を一門の結束の精神的な拠所とし、傾向としては他の流派よりも比較的堅く、また家職として朝廷の実務を担当する家が多く、弁官や摂関家家司を多く輩出していることで知られる。後世の実務の参考となるよう、先例を書き留めておく必要があることから、詳細な日記を残すことも求められ、勧修寺流は「日記の家」と称されるようになり、各家当主による日記も豊富に残されている。 定方の孫、為輔(朝頼の子)が、甘露寺家の祖とされる。が、甘露寺系と勧修寺系が分かれるのはさらに9代後の資経の時である(為輔の子からは上杉家も出ている)。為輔の玄孫・為房は白河法皇の院近臣、関白藤原師実・師通の家司となり、勧修寺流中興の祖とされる。為房の曾孫である経房が「吉田」の家名を名乗る。経房は源頼朝と関係が密接であり初代関東申次となって朝廷と鎌倉幕府の関係調整にあたった。 経房の孫にあたる資経の子・為経が甘露寺系、同じく経俊が勧修寺系、同じく資通が万里小路系として分かれる(さらに経俊の子経継からは中御門家が、曾孫の経顕からは勧修寺家が出る)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「勧修寺流」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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