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勾践〔『史記索隠』が引く『竹書紀年』によると、別諱は菼執。〕〔前述の『越王勾践剣』によると、もうひとつの別諱は鳩浅。〕(こうせん、? - 紀元前465年)は、中国春秋時代後期の越の王。范蠡の補佐を得て当時華南で強勢を誇っていた呉を滅ぼした。春秋五覇の一人に数えられることもある。句践とも表記される。越王允常〔『春秋左氏伝』では公子倉と記されている。〕の子で、楚の恵王の外祖父にあたる。 == 生涯 == 紀元前496年、越を強勢に築き上げた父の允常が逝去すると、太子勾践が後を継いだ。宿敵の允常の訃報を聞いた呉王闔閭は喪中に服した越を滅ぼすべく大軍を率いて攻め込んだ。しかし、檇李(現・浙江省嘉興市)で、范蠡の奇策によって呉軍は大敗し、越の武将霊姑孚が放った矢で片足を破傷した闔閭はこれが原因で陣没する。代わって太子の夫差が呉王として即位した。 夫差は、伍子胥の補佐を得て呉を建て直し、越に攻め込んで今度は越を滅亡寸前までに追い詰めた。 勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を請い、夫差は伍子胥の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召し使いとして仕えることになったが、范蠡の工作により程なくして越に戻ることになった。 勾践はこのときの悔しさを忘れず(これを「会稽の恥」と言う)、部屋に苦い肝を吊るして毎日のようにそれを舐めて呉に対する復讐を誓った。前述の夫差と合わせて臥薪嘗胆という故事の元となった逸話である。 越は着々と国力を蓄え、夫差が中原の会盟に出かけたときを狙って呉に攻め込んだ。呉の太子友は斬られ、夫差は慌てて呉へ引き返してきたが、これより4年後に呉は越に滅ぼされることになる。 呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の江蘇省の連雲港に遷し、更に諸侯を会盟して中原の覇者となった。 ただ、覇者となった勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種を自殺させたりと越を衰退させる結果となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「勾践」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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