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北磻磨 聖也(きたはりま せいや、1986年7月28日 - )は、兵庫県龍野市(現:たつの市)揖保町出身で山響部屋(入門時は北の湖部屋)所属の大相撲力士。本名は嶋田 聖也(しまだ せいや)。身長182cm、体重124kg、血液型O型、得意技は押し、突き。最高位は 東十両2枚目(2015年9月場所)。同じ北の湖部屋の嶋田は実弟(2013年1月場所初土俵)。愛称は「シウバ」。好物は焼鳥。 == 人物 == 皮革業を営む家庭の次男として生まれ、保育園児の時から揖保小学校4年次まで柔道を経験。小学校4年の春にわんぱく相撲の西播磨大会に出場して優勝し、兵庫県大会、全国大会まで進んだのを機に相撲へ転向することを決め、新日本製鐵広畑相撲教室に通い始める。チームメイトには高砂市出身で大学卒業後に境川部屋へ入門した同級生の妙義龍がいた。〔『相撲』2012年3月号71頁〕小学校6年次まで毎年わんぱく相撲の全国大会に出場し、中学校進学後は2・3年次に全国都道府県中学生相撲選手権大会への出場を果たしている。 当初高校進学志望だった嶋田少年であったが、3年時の都道府県大会出場時に北の湖部屋に泊まり、稽古を見たことで「この世界でやってみたい」と気持ちが変わり〔『相撲』2012年1月号33頁〕、北の湖が「プロを目指すには早い方がいい」と説得した〔神戸新聞2002年2月17日〕ことで入門を決意。中学校を卒業後、当時通っていた相撲教室の先輩である厳雄が所属している縁もあって当時の北の湖部屋に入門し、2002年3月場所で初土俵を踏んだ。同期には、同部屋の鳰の湖の他、稀勢の里、片山らがいる。初土俵後、約3年かかって幕下に昇進した。しかし、100kg余りの軽量のためなかなか幕下に定着できず、低迷した。 2008年3月場所に本名の嶋田から北磻磨に四股名を変更した。この四股名は、「北」は師匠の北の湖の文字をとり、「磻磨」は出身地であるたつの市が入っていた播磨国からきたもの。これ以降、幕下に定着するようになり、着実に番付を上げていった。2011年7月場所から幕下上位で3場所連続で勝ち越しを決め十両昇進を決めた〔初土俵から10年目…十両昇進にホッ - SANSPO.COM 2011年11月30日〕。同郷(たつの市出身)であり同じ出羽海一門の待乳山とは十両昇進以前に特に面識を持っておらず、声を掛けてもらったのも自分の相撲を見てもらうようになったのも十両昇進後からであるという〔。 2012年は6場所すべてを十両で過ごしたが、うち2場所で勝ち越しを果たすことがやっとであり、2013年1月場所に幕下陥落を喫する。2014年1月場所は西幕下4枚目の地位で5勝2敗の成績を挙げ、これで4度目の十両昇進を果たしたが、翌3月場所は西十両14枚目で千秋楽に負け越しが決定し、再び幕下へと陥落した。同年9月場所で5度目の十両昇進をすると2場所連続の勝ち越しで2015年1月場所は15場所ぶりに自己最高位を更新。この場所は負け越したが9月場所でももう一度自己最高位を更新し、この年は1年間十両を保った。本場所中の同年11月20日に師匠の北の湖を亡くした11月場所では千秋楽に勝ち越した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北はり磨聖也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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