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北原 兼正(きたはら かねまさ、? - 永禄5年6月3日(1562年7月4日))は戦国時代の日向国北原氏家臣。別名は伊勢介。子は北原新助、北原又八郎。 北原苗字であるが、その庶流であるかは不明。横川(現・鹿児島県姶良郡)の地頭職および横川城主を務めた。 永禄2年(1559年)北原氏の家督と領地が伊東義祐に事実上簒奪されると、その3年後の永禄5年(1562年)、北原旧臣の白坂下総介が北原家の再興を画策、守護の島津貴久に協力を依頼する。更にこれへ北郷時久・相良義陽が助勢したことにより、北原兼親を当主に北原家は再興され、飯野側(加久藤盆地側)の北原旧臣である白坂兼頼(後の白坂昌棟)や大河平隆利らは、挙って兼親に従った。 しかし、兼正のみは従わず、島津貴久の再三の説得にも耳を貸さなかった。そのため、貴久は自らの三男である島津歳久を大将に任じて、横川城を攻撃させる。兼正は進退窮まり嫡子の新助と共に自害し、城も落城した。次男の又八郎は落ち延び伊東家臣となったものか、元亀3年(1572年)の木崎原の戦いに伊東方として出陣し戦死している。 ==参考文献== *『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会) *『島津中興記』(青潮社、1979年8月) *『都城市史』 都城市史編さん委員会 *『日向記』 (宮崎県史 叢書) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北原兼正」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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