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北尾 次郎(きたお じろう、嘉永6年7月4日(1853年8月8日) - 明治40年〔1907年〕9月7日)〔〔は、日本の気象学者・物理学者。 == 経歴 == 出雲国松江藩医の村松寛裕の次男〔として出生。幼名は録次郎〔〔。 幼少の頃から『四書五経』の素読に励み、12歳で『文選』・『史記』・『通鑑』等を通読する俊才だった。1869年、松江藩蘭学者・北尾漸一郎の養嗣子となった〔〔。同年開成学校に入学してフランス語を学び、同校が大学南校に改称されると、英語と究理学(物理学)を学んだ。 1870年、16歳で明治新政府派遣のドイツ留学生に選ばれたが、これは同政府が医学修行のため抜擢した14名のうちの最年少であった。ドイツ到着後2年間はギムナジウムで主にドイツ語を学び、1873年にベルリン大学に入学し、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、グスタフ・キルヒホフ、エルンスト・クンマーらの下で物理学と数学を学んだ。同年、政府官費給与制度が廃止となり、以降は養父からの学費や家庭教師などの収入で勉学を続けた。後にゲッティンゲン大学で学位を得た〔〔。ベルリン大学では、ヘルムホルツの指導下で色彩感覚を物理学的に扱って光に対する視力を測定するロイコスコープを発明したが、発明の優先権の扱いでヘルムホルツと軋轢を生じた。1878年にゲッティンゲン大学に北尾の学位論文として提出して、理学博士号に相当する学位を受けたが、後にベルリン大学へ戻ってヘルムホルツの下で研究を続けた。 1883年末に帰国すると、翌1884年に文部省御用掛大学理学部勤務となり、同年ドイツ滞在中に婚約したベルリン生まれ〔のドイツ人・ルイゼ(日本戸籍名は留英子)と結婚した。 1885年、東京大学教授となった〔。力学や音響学の講義を行い、その頃は理学部が数学・天文・物理に分かれる直前で、北尾は物理学者であると同時に数学者であるとも見なされていた。 1886年、東京農林学校教授〔兼帝国大学理科大学教授〔となった。北尾の従兄弟である桑原羊次郎によると、東京大学理科系の総帥・菊池大麓がイギリス留学経験者で、教授陣にもイギリス派が多かったため、北尾のようなドイツ系は傍系扱いをされていた。あるとき数学の講義で北尾が菊池の板書した数式をより簡明に書き直したところ、学生の間で菊池より北尾の方が偉いという風潮になり、これを知ったイギリス派教授陣の排斥によって、北尾は理科大学を去り東京農林学校教授へ転出することになった。 1888年、海軍大学校教授を兼任〔。1890年に帝国大学農科大学教授となり〔〔、1892年より農林物理学気象学講座を担当〔。同年、東京帝国大学評議員に任ぜられ、高等官二等、正五位に叙せられた。その後、高等官一等に昇り、従四位勲四等に叙せられた。 1902年にヨーロッパに派遣された〔後、1906年年より病気休職していたが、翌1907年に脳脊髄神経麻痺のため死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北尾次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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