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北属期 : ミニ英和和英辞書
北属期[きたぞくき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [き]
  1. (n,n-suf) period 2. time

北属期 : ウィキペディア日本語版
北属期[きたぞくき]
北属期()とは、北ベトナム最初の統一王朝である呉朝が建国されるまでの間、ベトナムが中国の諸王朝に服属していた時期である。
一般的に、前漢武帝交趾郡九真郡日南郡の三郡を北ベトナムに設置した紀元前111年から、呉権(ゴ・クエン)が呉朝を建国した939年までの時期を指すが、趙佗が建国した南越が北ベトナムを支配した紀元前2世紀を始まりとする場合もある〔西村「北属期」『新版 東南アジアを知る事典』、413頁〕。北属期は第1期(紀元前111年 - 紀元39年)、第2期(44年 - 544年)、第3期(548年 - 939年)の3つの時期に分けられる〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、33-34頁〕。ベトナム人にとっては屈辱的な時代と捉えられており〔〔宇野「北属期」『ベトナムの事典』、317-318頁〕、ベトナムで編纂された史書においては「外記」「前編」といった、真正の国史が始まる前の前段階として扱われている〔。従前は、ベトナムは中国の支配下で多くの文物を吸収し、中国化が進行する中で独立を達成した時代と考えられていた〔石澤「東南アジア世界」『南アジア世界・東南アジア世界の形成と展開』、70頁〕。これに対して、独立の初期までは他の東南アジア地域と同じようにベトナムにも独自の社会が存在していたとする意見も出されている〔。
中国の支配領域は平野部に限定され、山岳地帯にはムオン族タイ族などの漢化が及んでいない民族が居住していたと考えられている〔。
文献史料が乏しく、考古学的資料の発見による解明が待たれている時代である〔。文献史料としては、ベトナムで編纂された史書のほかに中国で編纂された正史に収録されている士燮らベトナムの統治者の列伝、『水経注』などの中国の地理書〔西村昌也「北部ヴェトナム銅鼓をめぐる民族史的視点からの理解」『東南アジア研究』46巻1号収録(京都大学東南アジア研究センター, 2008年6月)、9頁 〕が挙げられる。
発掘調査によって、北属期前の南越の支配制度が及んでいた範囲、龍編(ロンビエン)などの後漢以降の行政の拠点と比定される遺構、ハノイ安南都護府時代の遺跡などが確認されている〔。
== 第一次北属期 ==

紀元前2世紀ごろ、南越が北ベトナムに存在していた甌雒国を併合する。
紀元前111年に南越は漢の攻撃を受けて滅亡する。漢は北ベトナムに設置した交趾郡、九真郡、日南郡と、現在の中国に属する6つの郡を合わせて交州を設置した。
南越は漢と同様の中国人の国家であるが、
# ベトナムには代理の総督を置いて土着の封建勢力に統治を委任する間接統治を実施していたこと
# 南越が間接的に支配していた甌雒は、「国家」に相当するか、原始的な村落の集合体ではないのか
# 中国を覇権国家とみなし、覇権主義をとった漢の支配を中国支配の始まりとするべきか
ベトナム人が南越の統治時代をベトナム史に含めて北属期から除外することがあるのは、上記3点、加えて漢の攻撃に抵抗した南越への共感に基づくと考えられている〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、32-33頁〕。
支配当初、漢はベトナムに存在していた貉侯、貉将という組織を利用して統治を行っていたが、やがて漢の行政制度を適用するようになり、中央に任命された刺史、刺史の下にある太守が統治を行った〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、34頁〕〔『ベトナム』1、30頁〕〔ファン・ゴク・リエン『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、71頁〕。だが、漢は在地の人間に封土を与え、統治を委任した地域も依然として存在していた〔〔。
中国の統治下に置かれた北ベトナムには、南海の富貴を求める中国の官吏、商人が移住した〔。移住した官僚とその子孫は次第に土着化していき、在地の封建勢力と共に支配階級を構成する〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、38頁〕。中国から派遣された統治者の中には寛大な政治を行って民衆から慕われた者もいたが、苛烈な搾取を行う官僚が多く、中国人の支配に対する反感は強くなっていった〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、37-39頁〕。
王莽の簒奪と同じ時期に交趾郡の太守を務めた錫光(チ・クァン)は中国文化の普及を進め、儒教をベトナムに導入したと言われている〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、36頁〕。錫光は中央の混乱を避けてベトナムに逃れた官吏と学者たちを受け入れ、彼らの進言に従って学校を建設し、漢と似た行政制度を導入した〔。
40年ハノイ西の土着の首長の娘である徴姉妹(ハイバー・チュン)が、後漢の統治に対して反乱を起こす。徴姉妹の反乱は強権的な漢の港市である交趾郡に対する紅河デルタ土着の農耕民の反発であり、漢統治前からベトナムにあったドンソン文化の漢文化への抵抗が背景にあったと考えられている〔桜井「紅河の世界」『東南アジア史1 大陸部』、44頁〕。42年に後漢の将軍・馬援によって反乱は鎮圧され、馬援の元で紅河デルタと広西を結ぶ陸路、紅河雲南を結ぶ水路が建設された〔。馬援の元で土着の貉将の土地は再編され、抵抗する貉将たちは中部ゲアンまで漢軍の追撃を受け、3,000-5,000人のベトナム兵が斬殺された〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、44-45頁〕。徴姉妹の反乱の後に貉将制度は廃止され、交州に県制度が導入された〔『ベトナム』1、32頁〕。貉将に代わって、遠征に随行した漢人や漢人を祖先に持つ人間が行政に携わるようになり、漢の直接支配が確立された〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、45頁〕。44年、反乱の平定を終えた馬援は漢に帰国した。
ベトナムの民衆は漢から課せられた重税と労役、同化政策に苦しめられたが、同時に漢から導入した農工業の技術により、ベトナムの産業はより発達した〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、39-41頁〕〔ファン・ゴク・リエン『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、78-80頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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