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北山一揆(きたやまいっき)とは、天正・慶長年間に都合二度蜂起した奥熊野(牟婁郡東部)の地侍を中心とした一揆である。 ==天正の一揆== 天正14年(1586年)8月、奥熊野の地侍たちが蜂起した。蜂起の原因としては太閤検地への反発が挙げられるが、確実ではない。 紀伊の領主であった羽柴秀長は、8月28日自ら紀伊へ出陣して討伐に当たった。9月9日の合戦では多くの戦死者を出し、同14日には秀長重臣の伊藤掃部助が配下の兵もろとも討死するなど、羽柴方の犠牲も少なくなかったが、9月23日までにはほぼ制圧した。だが大雪のため、一揆衆への処罰は中途半端なものにとどまった。一揆衆は降伏して赦免を乞うたが、秀長はこれを許さず徹底的に成敗すべく翌年の出兵を命じる。九州征伐のため延期された懲罰出兵は天正16年(1588年)9月に吉川平介・同三蔵を派遣して始まり、翌17年(1589年)5月には処罰が遂行されたという〔藤堂高虎は、一揆鎮圧の拠点として天正17年に赤木城(現熊野市紀和町)を築城した。また高虎によって、多数の農民が田平子峠で斬首された(『日本城郭大系』第10巻(新人物往来社、1980年)P187-188)。当地では「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」と、処罰の厳しさが歌となって残っている(『三重県の歴史散歩』P271)。〕。 この一揆鎮圧では紀伊湊の領主である吉川平介が活躍し、熊野地方の統治にも深く関わった。平介は懲罰出兵さなかの天正16年12月に秀長の命令で熊野の木材2万余本を伐採して大坂で販売したが、この時熊野統治において不正を働き私腹を肥やしていたことが発覚して、激怒した豊臣秀吉によって大和西大寺で処刑され、首は洛中にさらされた。秀吉の怒りは弟の秀長にも向けられ、秀長は詫びを入れたが容易に許されなかったという。当時畿内は建築ブームだったため、熊野の良質の木材は高く売れ、秀長も相当の利益を上げていたようである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北山一揆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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