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北山 清太郎(きたやま せいたろう、1888年3月3日 - 1945年2月13日)は、日本のアニメーション作家、水彩画家、雑誌編集者である〔北山, 清太郎, 1888-1945 、国立国会図書館、2012年6月8日閲覧。〕〔津堅、p.16.〕〔''北山清太郎''、日本映画データベース、2012年6月8日閲覧。〕〔日本アニメーション映画史 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年6月8日閲覧。〕。下川凹天、幸内純一と並び称せられる「日本初のアニメーション作家」である〔。日本水彩画会大阪支部代表、北山映画製作所代表を歴任した。 == 人物・来歴 == 1888年(明治21年)3月3日、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現在の同県和歌山市住吉町)に生まれる〔〔津堅、p.18-19.〕。父・清兵衛(1841年 - 1892年)、母・かつ乃(1854年 - 1937年)の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、1903年(明治36年)4月12日、家督を相続する〔。 大下藤次郎が1907年(明治40年)に起こした日本水彩画会に入会し、1911年(明治44年)2月、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現在の同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する〔津堅、p.22-23.〕。同年5月にはまもなく同支部を脱退し、東京に移る〔。1912年(大正元年)9月に斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した〔津堅、p.242.〕。 1916年(大正5年)7月に有楽座にてアニメーションを特集した上映会「凸坊会」にてアニメーションに触れて興味を持つ〔津堅、pp.61-65〕。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年1月に日活向島撮影所へ入る〔津堅、pp.80-82。なお、日活へ入ったのは1915年(大正4年)や1916年(大正5年)とする異説もある。津堅、88-90。〕。北山は日活にて日本初の漫画映画(アニメーション映画)づくりに取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現在の東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった〔津堅、p.126-127.〕。第1作は『猿と蟹』で、1917年(大正6年)5月20日に劇場公開された〔〔猿と蟹 (サルとカニの合戦) 、日本映画データベース、2012年6月8日閲覧。〕。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった〔。 1921年(大正10年)、日活を退社し、北山映画製作所を設立する〔津堅、p.142-143.〕。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した〔。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は、大阪に移った。 1945年(昭和20年)2月13日、午前4時30分、大阪府泉北郡高石町北55番地(現在の同府高石市)で、脳腫瘍により死去した〔〔津堅、p.237.〕。満56歳没。墓所は和歌山市打越町の真光寺にある〔。 北山の先駆的な作品群のうち、現存しているのは、松本夏樹が発掘し2008年(平成20年)にデジタル復元された『浦島太郎』のみで、他の作品はいっさい現存しておらず、北山映画製作所が製作した、弟子の戸田早苗(山本善次郎)の演出・作画による『教育お伽漫画 兎と亀』も現存し、いずれも東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している〔〔発掘されたアニメーション映画 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年6月8日閲覧。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北山清太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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