|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 北 : [きた, ほく] (n) north ・ 島 : [しま] 【名詞】 1. island ・ 朝 : [あさ, ちょう] (n-adv,n-t) morning
北島 秀朝(きたじま ひでとも、1842年2月10日(天保13年1月1日) - 1877年(明治10年)10月10日〔『明治維新人名辞典』329-330頁。〕)は、幕末の水戸藩士・神職、明治期の内務官僚。県令。旧姓・益子。幼名・孝之助、時之助、千太郎〔。 ==経歴== 下野国那須郡大山田村字下郷(現栃木県那須郡那珂川町大山田下郷)で、篠尾神社神官・益子智定の息子として生まれる。貧困のため若年で開塾。その後、水戸藩に仕え、元治元年(1864年)水戸天狗党に加わるが、江戸幕府の追及から京都に逃れて北島家の養子となる。岩倉具視の知己を得た〔。 慶応4年1月(1868年)、戊辰戦争に東山道総督府大監察として従軍。以後、江戸鎮台府判事助役、同府判事、会計官判事、東京府判事、東京開墾局御用掛兼勤、同府権大参事、同府大参事などを歴任〔〔「故長崎県令北島秀朝ヘ祭資料賜方伺」〕。 明治5年1月25日(1872年3月4日)、和歌山県権令に就任し、1873年1月15日、県令に昇格。初期県政の基礎作りに尽力。同年10月13日、依願免本官となる〔〔『新編日本の歴代知事』732頁。〕。1874年4月29日、第一次佐賀県令に発令されたが、1876年4月18日、佐賀県が廃止され廃官となる〔。同年、5月22日、長崎県令に就任〔『新編日本の歴代知事』1012頁。〕。西南戦争では民心の安定に努めた。長崎市内でコレラが流行し、制止されたが患者を見舞って本人も感染し在職中に死去した〔『幕末維新大人名事典』上巻、444頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北島秀朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|