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北方戦争における諸条約 : ミニ英和和英辞書
北方戦争における諸条約[ほっぽうせんそうにおけるしょじょうやく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
北方 : [ほっぽう]
 【名詞】 1. northern (district) 2. northward 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦争 : [せんそう]
  1. (n,vs) war 
: [しょ]
  1. (pref) various 2. many 3. several 
条約 : [じょうやく]
 【名詞】 1. treaty 2. pact 
: [やく]
  1. (adv,n) approximately 2. about 3. some 

北方戦争における諸条約 : ウィキペディア日本語版
北方戦争における諸条約[ほっぽうせんそうにおけるしょじょうやく]

本項では北方戦争におけるスウェーデンと各国間との諸条約を挙げる。
デンマークは、スウェーデン王カール10世が敢行した氷上侵攻に屈服し、戦意を喪失して降伏した。
* ― スウェーデン・デンマーク間(1658年2月26日)
 *スコーネ地方、ブーヒュースレーン地方ブレーキンゲ地方トロンハイム地方及びボーンホルム島をスウェーデンに割譲。
これによって、スウェーデンの領土は史上最大となった。
1660年にスウェーデン王カール10世が死ぬと、イングランドフランス王国ネーデルラント連邦共和国が仲介に入り、北方戦争終結に向けて戦争当事者間で講和条約が結ばれた。
* ― スウェーデン・ポーランド間(1660年4月23日)
 *スウェーデン、ポーランド王国間の戦争終結。
 *スウェーデンは占領していた貿易港をポーランドに返還する。
 *ポーランドはスウェーデンへの王位要求権を放棄。
 *リヴォニア及びリガのスウェーデン領の確定(スウェーデンの主権を確認)。
 *ブランデンブルク=プロイセンハプスブルク家ポンメルンからの撤退の合意。
 *プロシア公領ポーランド・リトアニア共和国から独立。
* ― スウェーデン・デンマーク間(1660年5月27日)
 *スウェーデン、デンマーク間の戦争の終結。
 *スウェーデンはトロンハイム地方及びボーンホルム島をデンマークに返還。
 *スコーネ地方のスウェーデン領の確定。
 *デンマーク海軍バルト海でのスウェーデンに対する示威行為の禁止。
* ― スウェーデン・ロシア間(1661年6月21日)
 *スウェーデンとロシア・ツァーリ国間の戦争の終結。
 *ロシアのバルト海沿岸からの撤退。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドの弱体化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではカール10世の死によってスウェーデンからの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。
== 脚注 ==

'' ― スウェーデン・デンマーク間(1658年2月26日)
 *スコーネ地方、ブーヒュースレーン地方ブレーキンゲ地方トロンハイム地方及びボーンホルム島をスウェーデンに割譲。
これによって、スウェーデンの領土は史上最大となった。
1660年にスウェーデン王カール10世が死ぬと、イングランドフランス王国ネーデルラント連邦共和国が仲介に入り、北方戦争終結に向けて戦争当事者間で講和条約が結ばれた。
* ― スウェーデン・ポーランド間(1660年4月23日)
 *スウェーデン、ポーランド王国間の戦争終結。
 *スウェーデンは占領していた貿易港をポーランドに返還する。
 *ポーランドはスウェーデンへの王位要求権を放棄。
 *リヴォニア及びリガのスウェーデン領の確定(スウェーデンの主権を確認)。
 *ブランデンブルク=プロイセンハプスブルク家ポンメルンからの撤退の合意。
 *プロシア公領ポーランド・リトアニア共和国から独立。
* ― スウェーデン・デンマーク間(1660年5月27日)
 *スウェーデン、デンマーク間の戦争の終結。
 *スウェーデンはトロンハイム地方及びボーンホルム島をデンマークに返還。
 *スコーネ地方のスウェーデン領の確定。
 *デンマーク海軍バルト海でのスウェーデンに対する示威行為の禁止。
* ― スウェーデン・ロシア間(1661年6月21日)
 *スウェーデンとロシア・ツァーリ国間の戦争の終結。
 *ロシアのバルト海沿岸からの撤退。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドの弱体化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではカール10世の死によってスウェーデンからの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。
== 脚注 ==

'' ― スウェーデン・ポーランド間(1660年4月23日)
 *スウェーデン、ポーランド王国間の戦争終結。
 *スウェーデンは占領していた貿易港をポーランドに返還する。
 *ポーランドはスウェーデンへの王位要求権を放棄。
 *リヴォニア及びリガのスウェーデン領の確定(スウェーデンの主権を確認)。
 *ブランデンブルク=プロイセンハプスブルク家ポンメルンからの撤退の合意。
 *プロシア公領ポーランド・リトアニア共和国から独立。
* ― スウェーデン・デンマーク間(1660年5月27日)
 *スウェーデン、デンマーク間の戦争の終結。
 *スウェーデンはトロンハイム地方及びボーンホルム島をデンマークに返還。
 *スコーネ地方のスウェーデン領の確定。
 *デンマーク海軍バルト海でのスウェーデンに対する示威行為の禁止。
* ― スウェーデン・ロシア間(1661年6月21日)
 *スウェーデンとロシア・ツァーリ国間の戦争の終結。
 *ロシアのバルト海沿岸からの撤退。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドの弱体化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではカール10世の死によってスウェーデンからの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。
== 脚注 ==

'' ― スウェーデン・デンマーク間(1660年5月27日)
 *スウェーデン、デンマーク間の戦争の終結。
 *スウェーデンはトロンハイム地方及びボーンホルム島をデンマークに返還。
 *スコーネ地方のスウェーデン領の確定。
 *デンマーク海軍バルト海でのスウェーデンに対する示威行為の禁止。
* ― スウェーデン・ロシア間(1661年6月21日)
 *スウェーデンとロシア・ツァーリ国間の戦争の終結。
 *ロシアのバルト海沿岸からの撤退。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドの弱体化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではカール10世の死によってスウェーデンからの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。
== 脚注 ==

'' ― スウェーデン・ロシア間(1661年6月21日)
 *スウェーデンとロシア・ツァーリ国間の戦争の終結。
 *ロシアのバルト海沿岸からの撤退。
1655年から続くスウェーデンを環とした北方戦争は、ロシアとの講和を最後にして収束し、スウェーデンのバルト海制覇、つまり北方の覇権を完璧なものとしたが、北東ヨーロッパのヘゲモニーを完全に覆すものではなかった。特にポーランドの弱体化は、東欧に新たな火種を残すこととなった。ロシアはポーランドとの戦争を再開し、デンマークではカール10世の死によってスウェーデンからの脅威は完全に去ったが、国内の安定化を図り、絶対主義を開始した。また、北東ヨーロッパの熾烈な覇権争いの狭間で、ブランデンブルク=プロイセンはこの間隙を縫って自立に成功した。全ての強国のくびきから脱したプロイセンは、大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの元で、18世紀以降のプロイセン王国の強大化の基礎を築いたのである。
== 脚注 ==


== 参考文献 ==


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北方戦争における諸条約」の詳細全文を読む




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