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北村 宗好(きたむら むねよし)は、江戸時代前期の弘前藩の武士。同藩家老職。瀧川主水。 == 生涯 == 正保元年(1644年)2月、北村宗容が500石加増の上で弘前藩家老職となり、宗好も証人役となる。 慶安元年(1648年)1月17日、正保の騒動の遺恨により、父宗容が城内で村山七左衞門(村山滋朝)に殺害されたため、3月7日、18歳で家督1000石を継ぎ、家老となった。 承応元年(1652年)3月4日、年寄役に就任。藩政では岩木川改修工事や延宝4年(1676年)6月15日に下新田開発を建白など、手腕を振るった。後に家老に昇進し、弘前藩三家老「仏の弥右衛門(北村宗好)、鬼の庄兵衛(進藤正次)、どっちつかずの治大夫(渡辺政敏)」と呼ばれた。 延宝6年(1678年)1月26日、藩主に寵愛され、前年に500石を与えられ「喜多村」と改姓するよう命じられていた次男の喜多村源八(宗則。のち藩主の信政から一字を拝領し監物政広)、藩主の師である山鹿素行の三女鶴と江戸にて婚姻。5月10日には江戸表にて府下乗物御免を許された。 延宝8年(1680年)10月6日、宗好ら三家老が老齢のため家老を退き、(名誉職として)表書院番についた。元禄5年(1692年)10月5日、病没。 長男の統伴(瀧川統伴)が後を継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北村宗好」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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