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北村 徹(きたむら とおる、1960年 - 2010年12月10日)は、元競輪選手。日本競輪選手会・熊本支部に在籍していた。日本競輪学校第43期生の競輪選手、北村哲郎は実弟。 == 経歴 == 九州学院高等学校時代の1977年、全国高等学校総合体育大会自転車競技大会(玉野競輪場)のイタリアンチームレース(現在のチームスプリントの前身種目)で優勝を経験。同校卒業後、日本競輪学校第43期生となる。 後に、滝澤正光、佐々木昭彦、小川博美といった特別競輪(GI)優勝経験者を輩出することになる第43期生の中でも、北村の競輪学校時代の強さは桁違いで、在校競走成績第1位に加え、卒業記念レースでも優勝を果たした。 当時の記事では代名詞が「小さなチャンピオン」。(身長は実際162cm位) デビュー戦は1979年4月7日、旧松山競輪場で迎え1着。さらにこの開催の完全優勝も果たした。その後も着実に実力をつけていき、1981年のオールスター競輪(立川競輪場)の決勝に進出。中野浩一 - 井上茂徳の「ゴールデンコンビ」の『機関車役』として果敢に先行し、井上の初タイトルに貢献した形となった(自身は9着)。また同年に行われた新人王戦では、同県の岸本元也の逃げに乗って完全優勝を果たした。 1982年、イギリスのレスターで開催された世界自転車選手権のケイリンに出場し、野田正と共に決勝に進出。流れが向かない不利な展開の中、直線で鋭い追い込みを見せ、ゴードン・シングルトン(1着)、ダニー・クラーク(2着)に次いで3位に入り、銅メダルを獲得。また、同年の競輪王戦の決勝戦でも再び、中野-井上の黄金コンビを牽引した(8着)。 その後も、1984年のオールスター競輪(西宮競輪場)で決勝戦に進出(8着)したが、北村がトップクラスの選手として活躍したのは、事実上ここまでとなってしまった。 その後は膝の故障に苦しめられ、さらに、だましだまし競走を続けていくうちに成績が急降下。引退年となる2001年にはB級1班にまで転落していたが、同年10月23日に選手登録削除された。通算戦績1751戦388勝。通算優勝回数63。 2010年12月10日死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北村徹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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