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北村 文男(きたむら ふみお、1920年10月4日 - 1993年1月14日)は、将棋棋士、囲碁棋士。三重県鈴鹿市出身。将棋では板谷四郎九段門下。日本将棋連盟棋士番号76。囲碁では関西棋院中部総本部〔2010年3月まで存在した組織。詳細は関西棋院を参照。〕所属、伊神肇六段門下。 == 人物 == 早稲田大学卒業後、教員の傍ら1948年にアマチュア名人戦で三重県代表として出場し優勝。1950年、西名人(全国準優勝)を果たす。 その後、1956年に奨励会初段試験に合格し、同年予備クラスに入り四段ながら順位戦から予備クラス入りしていた浅沼一、後に棋士となる木村嘉孝・内藤國雄・佐伯昌優・伊達康夫らを相手に、内藤に1敗のみの11勝1敗の成績で1期で昇段を決め、翌1957年に四段昇段。38歳での順位戦初参加は、1956年から1973年まで行われていた予備クラスの三段から四段に昇段した中で最年長記録となる。ただし最初の順位戦で6勝8敗で序列最下位のため同星多数ながら降級し、1959年に奨励会予備クラスに戻る。 1961年は予備クラス後期西軍優勝も、人員調整で東軍に編入されていた東軍優勝高島弘光に敗れる。この年から行われるようになった敗者戦を前期東西決戦敗者の板谷進と指し勝利し、順位戦に復帰する。なお同時に降級した西本馨は復帰できず、橋爪敏太郎は予備クラスでは指さずに引退している。予備クラスから復帰自体も、星田啓三に次ぐ2例目、後に橋本三治が達成しているのみ。また予備クラスの後継奨励会A組敗者戦勝者での順位戦参加者は、他に山口英夫・森雞二・野本虎次しかおらず、予備クラスからの復帰者は唯一である。 1962年に復帰後は、1964年に9勝3敗で10勝2敗で昇級した米長邦雄・関屋喜代作の次点になったのが最高成績で、1971年第26期順位戦C2組では0勝8敗で全敗を喫するも契約問題のため降級点がつかず、1975年に2勝8敗で降級点を与えられ、1980年に3勝7敗で2つ目の降級点を与えられ、1987年の引退まで解消することはできなかった。1982年には、0勝10敗の2度目の全敗を喫している。1958年・1963年、古豪新鋭戦で準優勝。1986年六段。1987年引退。1999年、追贈七段。将棋の弟子に山本真也がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北村文男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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