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北村銀太郎 : ミニ英和和英辞書
北村銀太郎[きたむら ぎんたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [ぎん, しろがね]
 【名詞】 1. (1) silver 2. silver coin 3. silver paint

北村銀太郎 : ウィキペディア日本語版
北村銀太郎[きたむら ぎんたろう]

北村 銀太郎(きたむら ぎんたろう, 1890年明治23年)12月12日-1983年昭和58年)10月3日)は日本の興行主・建築業者。建築業を経て寄席経営にかかわり、特に新宿末廣亭の席亭を37年にわたって務めて「大旦那」と尊称され、噺家とは違った立場で落語界に重きをなした。
==生涯==
北村銀太郎は、1890年(明治23年)12月12日、東京府四谷区四谷箪笥町で建築業を営む北村久次郎の長男として生まれる〔#冨田 p.5〕。生年の1890年は五代目古今亭志ん生と同年であり、誕生日の12月12日は「黒門町」八代目桂文楽の没日と同じである〔#冨田 p.32〕。日露戦争のころには、四谷の芸者屋でのちの六代目雷門助六となる三代目都家歌六と出会う〔#冨田 p.62〕。また、「東京一の」鳶職が経営していた四谷大横町の寄席「喜よし」にも父に連れられて足を運んだりしていた〔#冨田 pp.70-71〕。やがて「喜よし」席亭の息子と仲良くなって一人で出入りするようになる。工手学校(現・工学院大学)卒業後〔#毎日831004〕、関東大震災より前のことは不明であるが、父同様に建築業者となった。建築業者としては映画館や、東京吉本系の寄席の建築などを請け負った〔#冨田 p.79〕。そんな中の関東大震災直後、当時の落語界の重鎮・「五代目」こと、五代目柳亭左楽と出会う。北村と左楽は助六の弟子の初代雷門福助#北村・冨田 p.153 〕を介して知り合い、北村は左楽に薦められて震災で焼失したまま空き地だった下谷竹町〔現在の台東区台東4丁目。〕の寄席・とんぼ軒の跡地に三代目歌六改め六代目助六と共同で、寄席六三亭を開業する〔〔『六三亭』の名前は、賭博で数字の9がもっとも強いことから。6+3=9という訳で、賭博好きの六代目助六にちなんだ命名(#切絵図 89-90頁)。建材は映画館建設用に確保していたものを転用した。映画館の建設中止は震災の影響ではなく、施主が詐欺師同然だったため(#北村・冨田 続 153頁)。〕。客入りの良い寄席だったが小学校用地として買収されて1928年(昭和3年)頃に開場から2年半程で閉場した〔#北村・冨田 続 158-159頁。〕〔跡地は2015年現在、台東区立平成小学校(旧・竹町小学校)の敷地の一部になっている。〕。はからずも、「鳶の頭が寄席を経営する」〔という伝統を北村も継承したこととなった。年号が昭和になったばかりのころ、北村は湯島に左楽の家を新築した〔〔#タウンライフ新宿〕。やがて左楽が余興に出る際についていくほどの昵懇の仲となる〔#冨田 pp.62-64〕。下って、左楽が1953年(昭和28年)に亡くなったあと、北村は左楽の一人娘であるすゑ子を後妻とした〔〔#冨田 p.145〕〔「すゑ子」の名前は『タウンライフ新宿』によるが、北村自身は「おせいちゃん」と呼んでいた(#冨田 p.145)。〕。
この左楽との親交が、新宿末廣亭経営の伏線となる。太平洋戦争新宿も空襲で焼け野原となり、かつては浪曲の定席であった(旧)新宿末廣亭も焼失したが、当時の席亭が寄席を好んでおらず再建する力も持ち合わせてなく、また借地だった〔#冨田 p.73〕。北村は北村で、新宿駅前で闇市を開業して勢力のあったテキヤである関東尾津組が掲げた『光は新宿より』のスローガンに共鳴し、「廃墟に寄席を建ててやらう」と意気込んでいた〔#冨田 p.74〕。決定打は左楽が「寄席で失敗しても、あそこなら住宅やマーケットを建てても食いっぱぐれがないから」と勧めたことで〔〔#秋山・前篇〕、北村は六三亭経営で培ったノウハウと手持ちの建築材料、資金、そして「芸人をよく知っている」という強みをつぎこんで、1946年(昭和21年)3月に新宿末廣亭を開場した〔#冨田 p.75〕〔#かたりべ33〕。この時点では、新宿末廣亭が建つ土地は以前のまま借地であった。北村は「坪七千円」で「百三十坪」の土地〔を地権者との交渉を幾度か重ねた末にすべて買い取ったが、このことは新宿末廣亭が存続していく上で大きな出来事となり、似た名前の寄席であった人形町末廣が土地持ちでなかったゆえに存続できなかったのと対照的であった〔#冨田 pp.75-76, pp.84-85〕。北村は続いて浅草に浅草末廣亭を開場するが〔三平食堂、現在の三平ストア浅草店の場所にあった(#冨田 p.77)。〕、ストリップ劇場の2階にあったこと、大家が「サギ師みたいなやつだった」こと、また浅草そのものが低迷していた時期と重なったこともあり、「聞きいい寄席」だったが2年程度で閉場した〔#冨田 pp.77-78〕。
やがてテレビ時代が到来するが、北村はむしろテレビを歓迎し、1961年(昭和36年)から1981年(昭和56年)まで『末廣演芸会』(NETテレビ/テレビ朝日)を放送する下地をこしらえた〔#冨田 pp.182-183〕。80代後半になっても、後述の落語協会分裂騒動の裁定などで存在感を示し、また「寄席は道場」、「育てながら売る」との信念から、若手噺家のための勉強会のために夜の部が終わったあとの新宿末廣亭を開放するなど〔#冨田 pp.165-166, p.187,192〕、90歳を超える最晩年になっても落語界の発展と育成に尽力し、いつしか「大旦那」と呼ばれるようになった。1983年(昭和58年)10月3日、北村銀太郎は心筋梗塞のため慶應義塾大学病院で亡くなった〔〔#読売831004〕〔#朝日831004〕。92歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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