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北村 透谷(きたむら とうこく、1868年12月29日(明治元年11月16日) - 1894年(明治27年)5月16日)は、日本の評論家・詩人。明治期に近代的な文芸評論をおこない、島崎藤村らに大きな影響を与えた。 == 人物 == 相模国足柄下郡小田原で没落士族の家に生まれた。本名は北村門太郎。両親とともに上京し、東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通った(のちの筆名・透谷は「すきや」をもじったもの)。 1883年、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学(東京専門学校には、1886年(明治19年)頃まで籍を置いていたとされるが、卒業はしていない)。自由民権運動に参加したが、運動は次第に閉塞してゆく時期であり、大阪事件の際同志から活動資金を得るため強盗をするという計画を打ち明けられ勧誘され絶望し、運動を離れた。1888年、数寄屋橋教会(現・日本基督教団巣鴨教会)で洗礼を受けた。同年、石坂昌孝の娘、石坂ミナと結婚。 その後、アメリカ・クリスチャン教会からD・F・ジョーンズ宣教師の通訳として麻布教会(現・日本基督教団聖ヶ丘教会)へ通う。〔『日本キリスト歴史大事典』p.1052〕 1893年夏には、伝道師として基督教会の磐中教会から福井捨助の開拓した花巻教会を支援する。〔守部喜雅『日本宣教の夜明け』P.21〕 1889年『楚囚の詩』を自費出版したが、出版直後に後悔し自ら回収した。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明した。「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は島崎藤村や木下尚江に衝撃を与えたという。1893年に創刊された『文学界』誌上に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆(当時は尾崎紅葉ら硯友社の最盛期であった)。また、イギリスから来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトと親交をふかめ、その影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴し、日本平和会の結成(1889年)にも参画、機関誌『平和』にも寄稿した。しかし、日清戦争前夜の国粋主義に流れる時勢も反映したのか、次第に精神に変調をきたし、評論『エマーソン』を最後に1894年、芝公園で首吊り自殺。25歳5ヶ月の若さだった。 透谷の作品群は、上記の近代的な恋愛観からも窺えるように、ジョージ・ゴードン・バイロンやラルフ・ワルド・エマーソンの影響下にロマン主義的な「人間性の自由」という地平を開き、以降の文学に対し、人間の心理、内面性を開拓する方向を示唆している。藤村は『桜の実の熟する時』『春』において透谷の姿を描いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北村透谷」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kitamura Tokoku 」があります。 スポンサード リンク
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