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北条 家時(ほうじょう いえとき、応長2年/正和元年(1312年) - 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日)〔『尊卑分脈』(黒板勝美、国史大系編修会(編)『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第四篇』(吉川弘文館)P.22)、およびこちらのページ より。〕)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。大仏流北条氏最後の当主。大仏流北条維貞の次男。北条高宣の弟で、北条貞宗、北条高直の兄にあたる。通称は陸奥右馬助〔。 嘉暦2年9月7日(1327年9月22日)に維貞が死去し、跡を継いだ兄・高宣もその翌年の嘉暦3年(1328年)4月に亡くなった〔ので、幼少にしてその跡を継いだ。 元徳元年(1329年)11月11日、評定衆となる。その後、後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、二人の弟とともに、家時自らが大将の一人として幕府軍を率い河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏(のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散。家時は、奈良に逃れた貞宗や高直〔安田元久編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』(新人物往来社、1990年)p.542 「北条高直」の項(執筆:奥富敬之)より。〕とは分かれて鎌倉へ赴いたが、正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日、新田義貞に攻められて、得宗家当主の北条高時らとともに自害した(東勝寺合戦)。享年22。 弟の貞宗と高直は、兄・家時らの死を知ると6月5日には縁戚関係にあった足利高氏〔維貞の外祖父(母方の祖父)、高氏の父・貞氏の外祖父がともに北条時茂であり、高氏と家時兄弟ははとこの関係にあった。〕に降伏。しかし、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったこともあり、高氏の助命嘆願も叶わず両者とも処刑され、大仏流北条氏はここに断絶した。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条家時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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