|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 北 : [きた, ほく] (n) north ・ 攻め : [せめ] 【名詞】 1. attack 2. offence 3. offense
小田原征伐(おだわらせいばつ)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が大義名分によって後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。惣無事令違反を名目に起こした征討で、天皇は後北条氏討伐の勅書を発していなかったものの、太閤であった豊臣秀吉は、天皇の施策遂行者として名分を備えていたという立場で臨んでいた〔下山(1996) pp.91-96。〕。小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。 小田原攻め、小田原合戦、小田原の役、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣、小田原城の戦い(天正18年)〔『戦国合戦史事典』小和田秦経(新紀元社、2010年4月)、『戦国合戦大事典(二)』戦国合戦研究会(池田公一、下山治久、湯山学、伊藤一美、柴辻俊六)(新人物往来社、1989年)〕とも呼ばれる。 == 北条氏康から氏政の時代へ == 戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康は武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政や足利晴氏を駆逐し、甲斐国の武田信玄、駿河国の今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。 戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する甲斐の武田信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、越後の上杉謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。 信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発する。勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、上杉景勝が乱を制したことにより、武田家との同盟は手切となる。なお、武田勝頼と上杉景勝は甲越同盟を結んだ。1580年(天正8年)、氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし、実質的当主として君臨していた。 武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、信長とも和睦を試みているが1582年(天正10年)に織田信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの戦後の恩賞は皆無であり、北条家は織田家へ不満を抱くようになる。 同年末の本能寺の変で信長が自刃した直後に織田家と断交し、織田家臣の滝川一益を敗退させた神流川の戦いを経て武田遺領の確保を目指した徳川家康との間に天正壬午の乱が勃発する。一時は東信濃を支配下に置いたが、武田遺臣の真田昌幸が離反する。後方に不安を抱えたままの合戦を嫌った後北条氏は、家康の娘・督姫を氏直の正室に迎え、武田遺領のうち後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和の道を選んだ。しかし、徳川傘下となった真田昌幸は勢力範囲の一つ沼田の割譲が講和条件とされたことに激怒、徳川氏からも離反し上杉景勝を頼ることとなった。 後北条氏は徳川氏との同盟締結によって、全軍を関東に集中できる状況を作りあげた。既に房総南部の里見家を事実上の従属下に置いていた北条氏は北関東に軍勢を集中させることとなった。 下野南部祇園城の小山氏を滅ぼし唐沢山城の佐野氏を乗っ取り、下野中央部宇都宮城の宇都宮国綱を攻撃するが、国綱は常陸の佐竹義重、下総の結城晴朝、奥州白河の小峰義親(白河結城氏)らと同盟して独立を保ちつつ、居城を宇都宮城から要害地多気山の多気城に移す。 宇都宮周辺部では壬生城および鹿沼城の壬生義雄はもともと親北条であり、宇都宮家重臣で真岡城城主の芳賀高継も当初こそ主家に従い北条に抵抗するも天正17年(1589年)終にこれに屈し、那須一族とは主導的な盟約を結び、小田原開戦時点では下野の大半を勢力下に置いていた。さらに常陸南部にも進出し、奥州の伊達政宗と同盟を結ぶなど、一族の悲願である関東制圧は目前に迫った。しかし、追い詰められた佐竹義重、宇都宮国綱、佐野房綱らは秀吉に近づくこととなる。豊臣政権側としても、以前から後北条氏を警戒していたようである。 そんな最中、真田氏との領土紛争を起こした後北条氏は一旦は秀吉の仲裁によって、後北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を後北条領とする事で和解する事になった。その和解の条件として秀吉は氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した(これは徳川家康や島津義久・義弘兄弟が豊臣政権に従った時にも条件の一つとして行われており、上洛以後は過去の敵対行為は一切不問とされている)。だが、後北条・真田双方ともその内部には仲裁案に不満を抱く者もおり、北条父子の上洛の話は実現しなかった。 代わりに板部岡江雪斎を使者として送り、一旦は氏政上洛という返事もあった。ところが、天正17年(1589年)11月、後北条方で沼田城将猪俣範直による(真田氏の墳墓があったため、特に真田側の領有とされていた)名胡桃城占領と言う事態を迎える。これに対し秀吉は後北条氏の惣無事令違反を非難して、その討伐令を全国の諸大名に通知した。範直の名胡桃城占領に関しては、範直の独断ではなく同時期に北条氏邦が宇都宮に侵攻していることから、暗に氏政の指示があったという説もあるが定かではない。同年12月13日、秀吉は宣戦布告の朱印状を以って陣触れを発した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小田原征伐」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Siege of Odawara (1590) 」があります。 スポンサード リンク
|