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北条 時子(ほうじょう ときこ、生没年未詳)は平安時代末期から鎌倉時代前期の北条氏一族の女性〔北条(2001)〕。鎌倉幕府初代執権北条時政の娘〔。北条氏得宗義時流〔。御家人である足利義兼の正室で、足利義氏、野田朝氏室の母〔。母は未詳だが、北条政子の同母妹とみられている〔千田(1985)pp.33-40〕。他に兄弟は、宗時、義時、時房、阿波局、時房、政範など。実名は未詳で、時子と伝承されているものの、その典拠は不明〔。法号は智願院殿。 == 生涯 == 治承5年(1181年)2月1日、姉・政子の夫である初代鎌倉将軍源頼朝の意向で、義兼の妻となる(吾妻鏡)〔。義兼は頼朝と同じく河内源氏義家流であり、頼朝の門葉とされ、また義兼の母と頼朝の母とは義理の姉妹で血縁としては叔母姪にあったが、時子との婚姻により義兼は、頼朝と相婿という更に強い関係で結ばれ、幕府内でも高い地位を得ていった〔。 頼朝死後、時政の他の娘達が縁付いた有力御家人・門葉の畠山重忠、稲毛重成、阿野全成、平賀朝雅、河野通信が、北条得宗が幕府権力を争奪する過程における権力闘争により次々と滅ぼされるか失墜していった。その中で足利氏は、時子の子である義氏を最盛期として幕府への影響力は低下していくものの、源家将軍断絶後も執権北条氏とは一応の協調関係を保ち、代々北条氏から室を迎え、鎌倉期歴代当主は北条氏所生の嫡男が家督を継いでいくこととなった〔〔6代目当主の足利家時と8代目足利尊氏は側室の上杉氏の所生である。家時は霜月騒動の余波で切腹し、尊氏は北条氏を滅ぼすこととなる。〕。 義兼との間には、足利家当主となった嫡男義氏と、一時は3代将軍源実朝の正室候補にもあげられた熱田大宮司野田朝氏室をもうけた〔。夭逝した瑠璃王と薬寿御前も時子の子と伝えられている〔運慶作と伝わる光得寺(足利市)と、2008年3月に真如苑がニューヨークの競売で落札した大日如来像2体は、義兼の発願に拠るものとされ、「鑁阿寺樺崎縁起並仏事次第」には台座に瑠璃王と薬寿御前の遺骨が納められたと記されている。〕〔峰岸(2009)pp.13-24〕。系図によっては義純も時子所生とするものもある〔。 没年は不明であるが、義兼(または継子の義純)が時子の菩提を弔うために建立した法玄寺(足利市)の縁起にある「蛭子伝説」では、建久7年(1196年)6月8日としている〔法玄寺の歴史-開山の由来- 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条時子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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