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北条有時 : ミニ英和和英辞書
北条有時[ほうじょう ありとき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [う, ゆう]
  1. (n,vs) possession 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

北条有時 : ウィキペディア日本語版
北条有時[ほうじょう ありとき]

北条 有時(ほうじょう ありとき)は鎌倉時代前期から中期にかけての武将北条氏の一門。父は鎌倉幕府2代執権北条義時。3代執権北条泰時の異母弟にあたる。母は側室で伊佐朝政常陸伊佐氏)の娘。伊具流の祖。初代執権北条時政の孫で、源頼朝正室の北条政子は伯母にあたる。
== 経歴 ==
義時の4男であるが、通称は六郎であり、義時の葬儀の際の序列は、正室所生の弟政村実泰より下位の最後尾に位置づけられている。
承久3年(1221年)の承久の乱では兄泰時に随伴して京都へ進撃する軍勢に参加した。将軍の近習、鶴岡八幡宮奉幣使などを歴任、仁治2年(1241年)、42歳の時に評定衆に選抜されるも、同年、辞任を申請するも受理されなかった〔『吾妻鏡』仁治2年(1241年)11月30日条に「今日駿河守有時評定衆を辞し申すと雖も、許容無しと」追記されている。〕。2年後の寛元元年(1243年)に病を理由に引退し、以降、文永7年(1270年)に71歳で没するまで出仕することはなかった。
吾妻鏡』ではその出産記事があること、また仁治2年(1241年)11月30日条には他の記事への追記で有時のことが記されていることから、有時の子孫に伝わる記録が『吾妻鏡』の編纂資料の一部として使われた可能性もある。
讃岐国守護職を務めており、この守護職は、宝治合戦で衰亡した三浦氏を譲渡されたものだという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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