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北条 氏綱(ほうじょううじつな)は、戦国時代の武将、相模国の戦国大名。伊豆国・相模国を平定した北条早雲(伊勢盛時)の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。 なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)くらいである。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞と名乗ったが、氏綱は後北条氏の2代目と数えられる。尚、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、早雲の別名として伝わる「長氏」・「氏茂」・「氏盛」の偏諱に由来するものとも考えられるが、氏綱の元服時に父はまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏当主・今川氏親からの偏諱として与えられたとのではないかとされている〔黒田(2013.01),p.064〕。 == 生涯 == === 家督相続 === 長享元年(1487年)、伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲)の嫡男として生まれる。従来、父早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており〔黒田(2005),pp.16-17.〕、その説によれば、早雲が32歳の時に氏綱が生まれたことになる。母は盛時の正室で幕府奉公衆小笠原政清(まさきよ)〔京都小笠原氏の当主。北条氏家臣の小笠原元続の祖父、元続の子・康広および細川家家臣小笠原少斎の曽祖父にあたる〕の娘・南陽院殿である。幼名は伊豆千代丸。氏綱が生まれた年に父・早雲は小鹿範満を討って、甥の龍王丸(のちの今川氏親)を今川家の当主に据えており、その功により興国寺城主となっている。 氏綱の文書上の初見は永正9年(1512年)で早雲の後継者として活動していたことがうかがえ〔森(2005),p.56;黒田(2005),pp.62-63.〕、早雲が大森氏から奪取した相模国小田原城に在番していたと推定されている〔森(2005),p.57;森(2005),pp.63-64.〕。 永正15年(1518年)、早雲の隠居により家督を継ぎ、当主となる。永正16年(1519年)に早雲が死去したため、名実共に伊勢(後北条)氏の当主となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条氏綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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