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北条 氏舜(ほうじょう うじとし/うじきよ、生年未詳 - 天正9年(1581年)2月24日〔高野山石碑より。弟の氏勝が左衛門大夫を襲名したのが天正11年(1583年)5月頃からとされるので、最後の発給文書である1580年から病に臥し、1581年に死去したと思われる〕?)は、戦国時代の武将。北条氏繁の長男。母は北条氏康の娘・七曲殿とされている。官途名は左衛門大夫。 == 概要 == 父・氏繁が病気の中、天正5年(1577年)主君の北条氏政とともに出陣し〔この時点で歴代玉縄城主の官途である『左衛門大夫』を名乗り、氏繁は常陸守を名乗っているので、既に家督を継承していたと推測される。〕、鬼怒川にて佐竹義重、宇都宮広綱、那須資晴と合戦を行っている。天正8年(1580年)8月までは武蔵岩付城代を務め、当主氏政の子北条氏房が岩付城主となると、玉縄城主となる。玉縄城主になると早速相模国東郡でのしかけなどで鳥を射たり、取ったりすることを法度として禁じている。これは玉縄北条氏が鎌倉時代以来の行事である放生会の伝統を受け継ぐことを支配地域に示したものと考えられている。 なお、この法度を出した後、後北条氏の史料から氏舜の名前が全く見られなくなる。 従来から不明な点が多く、近年ようやく氏繁の死後に家督を継いだことが分かったほど(それまでは氏繁死後家督を継いだのは、弟の氏勝だとされてきた)で、確認後も文書の残存率が低く、僅か7通しかない。また、未だどのように死去したのかも分からない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条氏舜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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