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北条熙時 : ミニ英和和英辞書
北条熙時[ほうじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

北条熙時 ( リダイレクト:北条煕時 ) : ウィキペディア日本語版
北条煕時[ほうじょう ひろとき]

北条 煕時(ほうじょう ひろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府12代執権(在職:応長2年6月2日1312年7月6日) - 正和4年7月11日1315年8月11日))である。
父は北条為時 (政村流)で、第7代執権・北条政村曾孫にあたる。正室は第9代執権の北条貞時の娘。
== 生涯 ==
弘安2年(1279年)、北条為時の子として生まれる。初名は貞泰(さだやす)〔〔〔煕時の元服についての詳細は分かっていないが、生誕年から元服の年次は1288年-1293年またはこの前後と推定される。この期間は北条貞時が得宗の地位にあって、「得宗(貞時)→御家人」という形で偏諱(「貞」の字)が授与される図式が成立しており(角田朋彦 「偏諱の話」(再興中世前期勉強会会報『段かづら』三・四、2004年、p.21)、「貞泰」の名もその方針に沿って名乗ったものと考えられる。〕、のち煕時に改名。
引付衆などを務め、嘉元3年(1305年)に長門探題となる。同年の4月に嘉元の乱が起こり、祖父(政村の子で為時の父)の時村が討たれ、続いて北条宗方らが貞時らに滅ぼされたが煕時は生き残った。この嘉元の乱では煕時も宗方に命を狙われたとされている〔。なお、この頃までには貞時の娘と結婚していたとされている〔。
延慶2年(1309年)3月に引付再編が行なわれて1番頭人となる〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉66頁。〕。4月9日には金沢貞顕と共に寄合衆に加えられ〔〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉66頁。典拠は『金沢文庫古文書』324号。〕、この頃から煕時は得宗北条貞時や金沢貞顕らと共に幕政を実質的に主導する立場の1人になった〔〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉67頁。〕。8月27日には引付1番頭人を辞任している〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉67頁。〕〔。しかし延慶3年(1310年)2月18日に復職した〔。
応長元年(1311年)9月に第10代執権の北条師時が死去して連署だった大仏宗宣が第11代執権に就任すると、10月3日に煕時は連署に就任した〔〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉73頁。〕。正和元年(1312年)6月2日に宗宣が出家すると12代執権に就任する〔。しかし、実権は内管領長崎円喜に握られていた〔。また、執権在職期間に連署を置く事は無かった〔。
正和4年(1315年)7月11日に病のため執権職を辞任して北条基時に譲り、同日に出家して道常と号したが、7月18日に病のために死去した〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉79頁。〕〔。享年37。
歌人でもあり、『玉葉和歌集』『新後撰和歌集』に煕時の詠歌がある〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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