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北条義時 : ミニ英和和英辞書
北条義時[ほうじょう よしとき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [とき]
  1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment 

北条義時 : ウィキペディア日本語版
北条義時[ほうじょう よしとき]

北条 義時(ほうじょう よしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将鎌倉幕府の第2代執権伊豆国の在地豪族北条時政の次男。源頼朝正室北条政子の弟。得宗家当主。
源氏将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者。幕府と朝廷の対立が激化すると、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となるも、幕府軍は京都に攻め上り、朝廷を制圧(承久の乱)。戦後に天皇を廃し3人の上皇を配流した。
== 生涯 ==

=== 青年期 ===
北条時政の次男として生まれ、江間小四郎と称した。母ははっきりしていないが、系図には「伊東入道の娘」とある。義時が15、6歳の頃に姉の政子が伊豆の流人であった源頼朝の妻となっている。治承4年(1180年)8月17日、義時は父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、石橋山の戦い大庭景親に敗北して宗時が戦死する。頼朝、土肥実平らは箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日、真鶴岬神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政・義時も別ルートで前日に安房に脱出し、現地で頼朝と合流した。態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて義時と共に甲斐に赴き、15日、武田信義一条忠頼のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという〔『吾妻鏡』によると上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第二の使者として甲斐に送り、24日、宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河で参会すべきか評議を重ねている。一方『延慶本平家物語』では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。時政・義時は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。〕。10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し、甲斐源氏との連携を成し遂げた時政は頼朝から報償を与えられた。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列している。
養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)〔他の10名は、下河辺行平結城朝光・和田義茂・梶原景季・宇佐美実政・榛谷重朝葛西清重三浦義連千葉胤正・八田知重。主に有力御家人の二世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を三浦義連・結城朝光、御後を梶原景季・八田知重が警護している。〕。この頼朝の個人的な側近・親衛隊は「家子」と呼ばれて門葉源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられ、義時はその中でも「家子の専一」とされた(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)。寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。
兄・宗時が戦死したため嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条姓ではなく所領とした江間の姓で記される事が多く、分家の江間家の初代であったと見られる。文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある〔細川重男は義時の次男・朝時が時政の屋敷であった名越邸を継承していることから、時政は朝時を後継者に考えていたのではないかと推測している(『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ、2011年)。ただし朝時の名越邸継承の時期は不明であり、時政の真意は定かでない。〕。
元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をした〔他の6名は、小山朝政和田義盛梶原景時土肥実平比企能員畠山重忠。〕。義時は21歳の時に長男・泰時をもうけていたが庶子であり、建久3年(1192年)9月25日、頼朝の仲介により比企朝宗の娘で誉れ高い幕府女房であった姫の前を正室に迎える。そして翌年に嫡男・朝時を儲ける。
頼朝存命中はそれほど表立つ事はなかったが、頼朝死後に鎌倉幕府内の権力闘争が激化すると頭角を現してくる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北条義時」の詳細全文を読む




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