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北条 茂時(ほうじょう しげとき〔 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.540〕/もちとき〔『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P.192(「北条茂時」の項、執筆:鈴木由美)による。〕)は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。鎌倉幕府の最後の連署である。 父は政村流で鎌倉幕府の第12代執権・北条煕時。母は第9代執権・北条貞時の娘〔。 == 生涯 == 生年については不明であるが、茂時が父・煕時同様に左近将監に任官・叙爵した際の年齢が、煕時と同じく15歳であったと仮定すると、逆算して嘉元元年(1303年)の生まれとなる。すると、嘉暦元年(1326年)の右馬権頭任官当時の年齢が24歳となるが、これも煕時の右馬権頭任官時と同年齢となる。母が北条貞時の娘(すなわち続柄としては得宗家の当主・北条高時の甥)であったことから、早くより左近将監・従五位下・右馬権頭・小侍所別当と昇進を重ねた〔が、これらは父・煕時を先例として同年齢もしくはそれ以下で行われたものとみられ、生年は嘉元元年前後であったと考えられている〔『鎌倉将軍・執権・連署列伝』P.191-192(「北条茂時」の項、執筆:鈴木由美)、および 細川、2000年、P.27による。〕。正和4年(1315年)に煕時が死去すると家督を継いで和泉守護職となり〔、この時に執権職相続の話もあったが、血統はともかくあまりに若年だったことが影響したのか沙汰止みとなっている。 嘉暦元年(1326年)5月13日に引付頭人に任じられる〔(前述の右馬権頭任官はこの年の9月である)。そして嘉暦2年(1327年)の北条維貞の死後に空位となっていた連署職に第16代執権・北条守時より元徳2年(1330年)7月9日に任じられるなど〔、要職を歴任した。 元弘3年/正慶2年(1333年)5月22日、新田義貞の鎌倉侵攻により、北条高時ら一族と共に北条氏菩提寺の鎌倉・東勝寺で自害した(東勝寺合戦)〔。推定される生年(前述参照)から、享年は30歳近くであったとみられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条茂時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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