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北条 貞顕(ほうじょう さだあき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第15代執権(在職:正中3年3月16日(1326年4月19日) - 正中3年3月26日(1326年4月29日))。 父は金沢流の北条顕時。母は摂津の御家人である遠藤為俊の娘・入殿。金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。 == 生涯 == === 家督相続 === 名の貞顕は北条貞時の「貞」と顕時の「顕」を組み合わせたものといわれる〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉3頁。〕。永仁2年(1294年)12月26日に左衛門尉・東二条院蔵人に輔任された。ただしこの官職は北条一門では低いほうで庶子扱いであり、出仕が17歳の時というのも遅いものである。これは弘安8年(1285年)11月の霜月騒動で父の顕時が連座して失脚(顕時の正室は安達泰盛の娘・安達千代野である)していたことが影響していたとされる。永仁4年(1296年)4月12日に従五位下に叙され、4月24日に右近将監に輔任されるに及んで、ようやく他家の嫡子並に扱われることになった。5月15日には左近将監に転任されたため、通称は越後左近大夫将監と称されることになる。 永仁6年(1298年)11月24日、清原直隆より『古文孝経』を伝授される。正安2年(1300年)10月1日に従五位上に昇進し、これにより霜月騒動以来の昇進の遅れを取り戻した。正安3年(1301年)3月に父が死去すると、北条貞時より兄らを飛び越えて嫡子に抜擢されて家督相続を命じられた。これは父の顕時に対する貞時の信任の厚さと貞顕の器量が兄より上と認められた処置とされる〔『金沢貞顕』〈人物叢書〉15頁 - 17頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条貞顕」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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