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北条 高広(きたじょう たかひろ)は、戦国時代の武将。越後国刈羽郡北条(新潟県柏崎市北条)の領主、北条城主。 娘に沼田朝憲室がいたと伝わるが、朝憲死去の年代から否定されている〔。 == 生涯 == === 謙信時代の動向 === 大永4年(1524年)もしくは享禄3年(1530年)、北条氏の家督も務めていた安田氏の安田広春が没すると、北条氏は養子の北条高広、安田氏は養子の安田景元がそれぞれ継承する。 高広は越後の戦国大名である長尾氏、長尾為景・長尾晴景に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐の武田信玄と通じて北条城において主君・長尾景虎に反乱。しかしこれは翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏した。その後は景虎(上杉謙信)に再び仕え、奉行として活躍した。 永禄6年(1563年)に上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。これを見るに、高広が武将として優れていたのが伺える。永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この時は、同姓でまぎらわしいため後北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した(高広は元の姓である毛利〔高広の家は庶流の越後北条氏。〕を用いた)。しかしこれは翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、高広は北条氏政の仲介のもと、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として忠実に仕えた。 江戸初期成立の「加沢記」によると、永禄12年(1569年)に上野国人・沼田氏で内紛が起こり高広娘婿で沼田氏当主・朝憲が殺害されると、高広は沼田氏の家臣団の求めに応じ、朝憲の父の沼田顕泰(万鬼斎)とその子の沼田景義を会津に追放したという。しかし沼田氏内紛は上杉謙信が関東へ進出する以前とのこととされ、沼田朝憲の室も当時の厩橋城主・厩橋長野氏出身と考証されており、高広と沼田氏は無関係である。〔黒田基樹 『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条高広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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