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北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院〔佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。〕。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した〔「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社。〕。 == 生涯 == === 家督相続 === 後北条氏初代として扱われる伊勢宗瑞(北条早雲)が存命中の永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる〔下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』〕。4歳の時に祖父宗瑞が死去。7歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになる。元服は氏綱の左京大夫任官と同時期の享禄2年(1529年)年末の15歳の頃と見られている〔黒田基樹「第三章 北条氏康」『戦国北条氏五代』pp099-132。〕。 享禄3年(1530年)、小沢原の戦いにおける初陣にて上杉朝興と戦い、これに大勝したと伝承されており(『異本小田原記』)、当時代史料の面からも事実に近いとされている〔。天文4年(1535年)8月の甲斐山中合戦、天文6年(1537年)7月の河越城攻略などに出陣して戦功を重ね、天文7年(1538年)の第一次国府台の戦いでは父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取って勝利を収めた〔山口 (2005) pp.09-23〕。 天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られている〔。 天文10年(1541年)に氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。なお、氏綱は死の直前、5か条の訓戒状を残した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条氏康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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