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北海道炭礦汽船夕張鉄道線 : ミニ英和和英辞書
北海道炭礦汽船夕張鉄道線[ゆうばりてつどうせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
北海 : [ほっかい]
 【名詞】 1. northern sea 2. North Sea 
北海道 : [ほっかいどう]
 【名詞】 1. northernmost of four main islands of Japan 
海道 : [かいどう]
 【名詞】 1. sea route 
: [すみ]
 【名詞】 1. charcoal 
炭礦 : [たんこう]
 【名詞】 1. coal mine 2. coal pit
汽船 : [きせん]
 【名詞】 1. steamship 
: [ふね]
 【名詞】 1. ship 2. boat 3. watercraft 4. shipping 5. vessel 6. steamship 
: [ゆうべ, ゆう]
 (n) evening
: [てつ]
 【名詞】 1. iron 
鉄道 : [てつどう]
 【名詞】 1. railroad 

北海道炭礦汽船夕張鉄道線 : ウィキペディア日本語版
北海道炭礦汽船夕張鉄道線[ゆうばりてつどうせん]

夕張鉄道線(ゆうばりてつどうせん)は、夕張鉄道(のち北海道炭礦汽船)が運行していた鉄道路線である。
北海道石狩支庁管内江別市函館本線野幌駅から、空知支庁管内夕張郡栗山町室蘭本線栗山駅、同支庁管内夕張市の夕張線(現・石勝線鹿ノ谷駅を経て同市の夕張本町駅までを結んでいた。1975年に全線が廃止された。
== 概要 ==
夕張鉄道線は、夕張炭鉱の事業用資材や石炭を運搬する目的で北海道炭礦汽船(以前の北海道炭礦鉄道)によって設立された夕張鉄道によって1926年(大正15年)に開業し、1930年(昭和5年)には野幌 - 新夕張(後の夕張本町)間の全線が開通した。
夕張炭田のうち若菜辺地区や新夕張炭山では明治30年代より石狩石炭が炭鉱開発を行い、明治42年(1909年)には熊ノ沢 - 鹿ノ谷 - 若菜辺間で専用鉄道の使用を開始した。当時、この地区で産出される石炭は国鉄夕張線により室蘭、小樽方面に輸送し、逆に炭鉱へは、由仁村川端地区で採取した坑内充填用火山灰を夕張線川端駅に接続する川端専用鉄道(大正7年鉄道敷設免許)と国鉄夕張線により運び込んでおり、夕張線による輸送は飽和状態となっていた。
1920年(大正9年)に石狩石炭を吸収した北海道炭礦汽船(以下、北炭)は、石炭増産に際して自社による石炭と火山灰の輸送を目論み、夕張鉄道(株)を設立、栗山 - 新夕張(のちの夕張本町)間16Mと継立 - 川端火山灰採取地間6Mの鉄道敷設免許を取得した。このうち栗山 - 新夕張間の本線を1926年(大正15年)に開業し、旅客・貨物輸送を開始した。続いて、1927年(昭和2年)には札幌・小樽方面への石炭輸送の短絡路として江別 - 栗山間12M28Cの鉄道免許を取得したが、幌向村内の通過予定地の地質が軟弱な泥炭地で線路敷設が困難であることを理由に国鉄接続駅を江別駅から野幌駅に変更の上、1930年(昭和5年)に野幌 - 栗山間を開業した。なお、継立 - 川端間の火山灰輸送線は、川端採取地の閉鎖と継立駅南方の新たな火山灰採取地への北炭継立専用鉄道建設により夕鉄としては起業放棄した。
夕張鉄道は、開業区間の野幌 - 夕張本町間以外にもいくつかの鉄道敷設計画があった。1935年(昭和10年)には、上江別 - 江別間および上江別 - 石狩間の鉄道敷設免許を申請したが、10km以上に渡って石狩川堤防上に線路を敷設するという計画に対して河川を管轄する北海道庁土木部河港課より多くの照会を受け、1939年(昭和14年)には上江別 - 対雁 - 当別太 - 篠路 - 花畔 - 石狩を結ぶ31.0kmと上江別 - 江別間1.6kmに計画を変更した。これについても石狩港築設計画の具体化まで保留するのが妥当との北海道庁の判断により、1943年(昭和18年)に申請書類を差し戻された。

また、平和砿の石炭増産に伴って鹿ノ谷駅を経由しない室蘭方面への短絡線として、北炭平和砿専用鉄道を吸収して専用鉄道終点と国鉄清水沢駅とを結ぶ平和 - 清水沢間4.6kmの鉄道敷設免許を1940年(昭和15年)に取得した〔許認可文書にて確認。従前、清水沢発電所への石炭輸送のため若菜辺 - 清水沢間の鉄道敷設免許を取得した旨の記述が文献に見られるが、官報等に記載の起点予定地住所(夕張町字若菜辺)に基づく誤解か。〕。こちらは、平和砿の出炭量が当初の計画通りに増えなかったことから、進展のないまま工事施行認可延長を繰り返し、1956年(昭和31年)に免許失効している。
その他、1958年(昭和33年)東急の北海道進出に際して、札幌 - 上江別間20.5kmの地方鉄道で、定山渓鉄道および夕張鉄道と一体化して運行し、将来は定山渓鉄道及び夕張鉄道を合併する札幌急行鉄道の構想も浮上し、1958年3月3日には免許申請を行ったが、結局実現はしなかった。
夕張鉄道には多くの北炭専用鉄道が接続しており、北炭継立専用鉄道や夕張砿専用鉄道に直通する火山灰輸送貨車を北炭より借り入れ、火山灰輸送終了後も社線内石炭輸送に使用した。また、夕張砿専用鉄道や角田砿専用鉄道、真谷地砿専用鉄道などに客車を貸し出し、砿員や家族の輸送に使用した。北炭ではこれらの専用鉄道を電化して電車を走らせるべく、夕張砿専用鉄道は1948年(昭和23年)7月、角田砿専用鉄道は同年10月に工事方法変更(電化)認可申請し、旭川市街軌道より夕張砿用に28と29(書類上は29と30)、角田砿用に3と20をそれぞれ購入〔旭川市街軌道の車両譲渡届および北炭の設計認可申請書による〕したが、資金難により夕張砿専用鉄道の電化は頓挫、角田砿専用鉄道のみが電化され、砿員・家族輸送に電車が使用された。従前、夕張鉄道線の夕張市内で使用する目的で旭川市街軌道の電車を購入した旨の記述が見られるが事実かどうかは不明である。
夕張鉄道は石炭輸送だけでなく旅客サービスにも力を入れ、1952年(昭和27年)に気動車を導入、さらに翌年には国私鉄通じて北海道初の液体式気動車(キハ251)が導入されてスピードアップが図られた。また、1961年(昭和36年)には国鉄の準急夕張に対抗して急行列車(急行料金 35km未満30円・35km以上60円)が運行された。錦沢駅は1927年(昭和2年)には既に「幽遼閑雅の地に位するを以って探勝のため、下車を希望する旅客多数」(駅昇格の理由書より)として信号所から駅に昇格し、錦沢遊園地が開設されて夕張随一の行楽地として賑わった。一方、鉄道の培養路線として夕張鉄道のバス路線が1952年(昭和27年)夕張・栗山間で運行開始、その後上江別(後北海鋼機前)・札幌大通間を開業、鉄道+バスの複合輸送により札幌乗り入れを形ながら実現した。
昭和30年代半ばに輸送のピークを迎えたが、バス路線の発達やマイカーの普及により旅客輸送が減少したため、夕張バスを吸収して経営の効率化を図ると共に、夕張市内の旅客輸送を順次バスに置き換えた。昭和40年代に入ると石炭産業の斜陽化により貨物輸送が減り始め、1971年(昭和46年)に鹿ノ谷 - 夕張本町間の運輸営業と栗山 - 鹿ノ谷間の旅客輸送を廃止した。だが、翌1972年(昭和47年)には新夕張炭砿が閉山して主力は北炭平和砿のみとなり、1974年(昭和49年)に野幌 - 栗山間の旅客輸送を休止、貨物専業となった全線を輸送合理化のため北海道炭礦汽船に譲渡した。1975年(昭和50年)3月末の北炭平和砿の閉山により遂に命脈尽き、全線が廃止されるに至った。このうち野幌 - 北海鋼機前間は北海鋼機(株)専用線、鹿ノ谷 - 若菜間は化成工業所専用鉄道となり、夕鉄廃止後も使用された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北海道炭礦汽船夕張鉄道線」の詳細全文を読む




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