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北畠八穂 : ミニ英和和英辞書
北畠八穂[きたばたけ やお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [はたけ]
 【名詞】 1. plowed (cultivated) field (ploughed) 2. kitchen garden 3. plantation
: [やつ]
 (num) eight
: [ほ]
 【名詞】 1. ear (of plant) 2. head (of plant) 

北畠八穂 : ウィキペディア日本語版
北畠八穂[きたばたけ やお]

北畠 八穂(きたばたけ やお〔『青森県風土記』第3巻(東京堂出版、1984年)p.25 〕〔『毎日年鑑』1970年版、p.72〕〔人名事典類では「やほ」という読みも流通しているが、北畠と交流を持ち『北畠八穂の物語』(北の街社)を書いた佐藤幸子によると、北畠自身が「やお」と発音していたという。佐藤によるこの指摘を受けて、青森県近代文学館でも掲示物等を全て「やお」という読みで作成・展示することとし、現在に至っている。〕 1903年明治36年)10月5日 - 1982年昭和57年)3月18日)は青森県出身の作家児童文学者詩人。本名、北畠美代。
==来歴・人物==
10人きょうだいの6番目の次女として青森市に生まれる。父は青森大林区署の役人。
1920年大正9年)、青森県立青森高等女学校(現在の青森県立青森高等学校)在学中、『主婦の友』『婦人倶楽部』に投稿して入選を果たす。1922年、高等女学校卒業後に上京し、実践女学校高等女学部国文専攻科に入学したが、脊椎カリエスを病んだため1年半で中退し、青森に帰郷。
恢復後、1924年(大正13年)から青森県内の複数の尋常小学校に代用教員として勤務。しかし脊椎カリエスが再発したため、1926年(大正15年)に退職。病気療養中、『改造』に投稿したことが契機となり、同誌編集者の深田久弥と恋に落ちる。
1929年(昭和4年)に上京し、千葉県我孫子東京市本所区で深田と同棲。しかし、八穂の健康状態を理由に深田の父に反対されたため、入籍は叶わなかった。
八穂は文才豊かだったが、標準語で文章を書くことに困難があり、また自分が寝たきりであることに関して深田に負い目があったため、夫を蔭から支える形で深田に自らの原稿を提供した。それらの原稿に基づき、深田は『あすならう』『オロッコの娘』『津軽の野づら』『贋修道院』『鎌倉夫人』などの小説を発表し、新人作家として注目を浴びた。時には深田自身が独力で小説を書くこともあったが、それらはことごとく失敗作に終わった。
1940年(昭和15年)に入籍し、深田姓となる。しかし1943年(昭和18年)5月、深田の不実(八穂の目が及ばないのを利用して初恋の女性と秘密の逢瀬を重ね、子供まで儲けていた)を知るに及び、家庭は夫婦の葛藤で泥沼状態となった。
1947年(昭和22年)、深田と離婚すると同時に、代作の件を全て世間に公表。以後は自分の名前で作品を発表した。
1948年(昭和23年)、当時20代だった白柳美彦と同棲を始める。傍ら、『銀河』『少女クラブ』『ひまわり』『少年倶楽部』などの雑誌に童話を発表。
1962年(昭和37年)、深田から受けた裏切りや代作について『右足のスキー』(『新潮』5月号)で仄めかした。1972年(昭和47年)、『鬼を飼うゴロ』で第10回野間児童文芸賞、第19回産経児童出版文化賞大賞受賞。
1982年(昭和57年)3月18日、閉塞性黄疸症で死去。享年78。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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