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北畠 師重(きたばたけ もろしげ)は、鎌倉時代後期の公卿。権大納言北畠師親の子で、母は法勝寺執行宗顕法印の女である。北畠親房の父。北畠家は代々大覚寺統への忠誠に篤く、師重も後宇多院の側近として仕えた。 == 経歴 == 文永8年(1271年)1月正親町院の当年御給により、2歳で叙爵される。以後、石見守・左近衛中将を経て、正応4年(1291年)3月後宇多上皇の当年御給により、従三位に叙されて公卿となった。同5年(1292年)12月右衛門督、同6年(1293年)1月正三位に叙任され、永仁2年(1294年)12月参議、同3年(1295年)12月権中納言へと累進する。同4年(1296年)には左衛門督・検非違使別当を兼任したが、間もなくこれらを辞し、同6年(1298年)1月従二位、同7年(1299年)1月正二位に昇叙される。乾元元年(1302年)11月中納言へ転正し、嘉元元年(1303年)8月権大納言に任じられた。 嘉元3年(1305年)9月亀山法皇の崩御に際しては素服を賜ったが、除服後の12月には権大納言を辞して、長男親房を権左中弁に申任し、直後に本座を聴許される。徳治2年(1307年)7月後宇多上皇の落飾に殉じて出家し、法名を経覚(一説に深覚)という。以来、遁世隠居の身で過ごすこと15年、元亨2年(1322年)1月13日薨去した。享年53。 歌人としては、『新後撰和歌集』の2首、『玉葉和歌集』の1首、『続千載和歌集』の4首、計7首入集する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北畠師重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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