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北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年(明治20年)4月18日 - 1923年(大正12年)4月1日)は日本の皇族である。階級は陸軍大佐。 北白川宮能久親王の第3王子。 ==生涯== 1895年(明治28年)、父宮の薨去により北白川宮家を相続。1909年(明治42年)に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。 1917年(大正6年)に大勲位菊花大綬章を受ける。陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。 1921年(大正10年)より軍事・社交の勉強のため、「北伯爵」の仮名でフランスに留学。翌年には自動車免許も取得し、機械好きな人柄から自家用車(ボアサン社製)も購入。房子妃も合流し、「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かった。銀行家アルベール・カーンとは家族ぐるみで親交があり、カーンによるプライベートフィルムが残されている(この事が縁となりカーンが日本へ派遣したカメラマン、ロジェ・デュマは1926年の来日の際に皇族の撮影を許可され北白川宮家を中心とした写真と映像を残した)。 1923年(大正12年)、成久王は滞仏中に運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり既に自動車運転の覚えがあった東久邇宮稔彦王と一緒にドライブを行う。しかし成久王の腕前が怪しかった為、稔彦王は「あなたはまだ危ないからおやめなさい。よほど安全な広い通りならいいが、お気をつけになった方がいい」と忠告した。 しかし成久王は聞き入れず、1923年4月1日には「ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに行かないか」と稔彦王を誘う。稔彦王はここでも「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい」と忠告したうえで、イギリスに行く約束があることを理由にこれを断って、ロンドンに向かった。 そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王に変え、同日朝に妃の房子内親王やフランス人の運転手等と共にドライブに出発した。 途中で鳩彦王を拾い、エヴルーで昼食をとったあと、成久王がハンドルを握った。その後ペリエ・ラ・カンパーニュの村から遠くない地点で前の車を追い抜こうとした際に、スピードの出し過ぎで車は大きく横に滑って道路を飛び出し、成久王が運転する車は路傍にあったアカシアの大木に衝突。この事故で、運転していた成久王と助手席にいたフランス人運転手は即死、同乗していた房子妃と鳩彦王も重傷を負った。 パリの日本大使館での葬儀の後、6月8日に豊島岡墓地で斂葬の儀が執り行われた。1935年(昭和10年)、事故現場に碑が建てられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北白川宮成久王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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