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北白川(きたしらかわ)は、京都府京都市左京区の東部に存在する地域(広域地名)である。ここではおおよそ、左京区内の「北白川」を町名に冠する地区の総称として用いる。かつては志賀越道(山中越)の街道集落として栄え、明治時代からは白川の水車を利用した工業も発達する。その他特産品としては花崗岩およびその加工物としての白川石、白川砂が著名。またかつては花の栽培・行商も盛んであり、その行商人は「白川女」(しらかわめ)と呼ばれていた。2012年現在は住宅地としての趣が強い。 == 概要 == 左京区の東に位置し、おおよそ東を東山、西を高原通、南を今出川通、北を東鞍馬口通に囲まれた一帯。西部は京都大学のある吉田及び田中、南部は浄土寺、北部は一乗寺、東部は銀閣寺前町及び銀閣寺町、さらに県境に位置するため、滋賀県大津市とも隣接する。また、厳密には南東部、大文字山(如意ヶ嶽)山中で鹿ヶ谷とも隣接している。かつての愛宕郡白川村である。 南部、西部は白川による「北白川扇状地」と呼ばれる谷口扇状地帯となっており、主に黒雲母花崗岩砂礫で形成されている。東山の西麓(京都側)では最も規模の大きな物であり〔『史料京都の歴史 8』 p.16〕、東大路通あたりまでが範囲に含まれる。また、追分町近辺は縄文時代には低湿地帯であったと推察されている〔社団法人京都市埋蔵文化財研究所のホームページ 「小倉町別当町遺跡発掘調査報告書(第6次調査)」(pdfファイル)、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、『先史時代の北白川』 p.14〕〔参考文献の各所において、水はけの良い、居住にも農業にも適した地質であるとの記述が見られる。なお、北白川の北方の修学院地域には音羽川、一乗寺川によって形成された扇状地と、やはり遺跡が存在している。〕。 地域の北東部は白川と京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線(志賀越道、山中越えなどと呼ばれる)に沿った山間部であるが、西部、南部は平坦な土地である。東山(特に比叡山、大文字山)の山裾に拡がる地域で、地域内に瓜生山(うりゅうざん、うりゅうやま。標高301m)と呼ばれる山が存在する 〔*>『新撰京都名所圖會』によれば、八坂神社の祭神である牛頭天王が、かつてしばしば立ち寄った山であり、この神が胡瓜を好んだことから。平安時代にはすでにこの名称が用いられていたとされる。本来は近隣の別の山(旧瓜生山とも)を指していたが、本来の瓜生山が「将軍山」と呼ばれるようになったため、本来の瓜生山とは別の山である。なお、一乗寺の狸谷不動尊も現在の瓜生山(洛中から見れば瓜生山の裏側)にある。現在瓜生山山頂の住所は隣接する一乗寺であるが、本山の歴史的経緯から、この北白川の項で述べるものである。なお、将軍地蔵はもともとこの山にあったことから、現地では「元将軍」という呼び名もある(史跡探訪 東山三十六峰)。 〕。 そのほか「北白川山」〔*>標高130m程度。将軍山、地域では丸山とも。北白川幼稚園が設けられているほか、2010年11月頃まで将軍地蔵安置されていた場所でもある。〕がある〔*>北白川山の一部がすべり山と呼ばれる(2010年6月現在、北白川幼稚園のホームページに記述が有る)、現在の瓜生山は元々は丸山である(『新撰京都名所圖會』)、かつては北白川地域の山々の総称として白川山と言う名称が使われていた(『雍州府志』のほか、『古今都細見之図』、『京都指掌図 文久改正』などの古地図で確認可能)、など、地域の山々の呼称は複雑である。将軍地蔵の移設がこの混乱の大きな原因と言われる。上記のほか『東山三十六峰を歩く』によれば、現地住民でさえも山名に対して混乱が見られ、また、各種文献に当たっても判然としない場合がある。〕。 また、古くは(現)瓜生山の一部が「茶山」と呼ばれており、叡山電鉄の駅名にその名を残している〔*>『新撰京都名所圖會』によれば、茶山の由来は「茶屋四郎次郎」という豪商の別荘が有ったことから。彼の本名が「中村情延」であることから、情延山とも呼ぶ。元々は織田信長とその家臣に受け継がれていた地域である。既にこの一体が茶山と呼ばれていた事は現地住民の間でも忘れ去られつつあり、茶山と言えば(かなり距離のある)叡山電鉄茶山駅の辺りを指すとの意識が強いと言う。また近辺には「滅苦寺跡」の石碑が、麓にある禅法寺の境内には「茶山」の文字の確認できる石碑がある(『東山三十六峰を歩く』 p.63 -)。〕。大文字山(466m) 、如意ヶ嶽(472m)との関わりも深い〔*>ただし、五山送り火の運営・作業は北白川(かつての白川村)ではなく、浄土寺(かつての浄土寺村)が受け持っている。また、如意ヶ嶽と大文字山は明治以降、正式には別の山であるが、『こども風土記』によれば、現地住民は同一視する場合がある。古くは正式には如意ヶ嶽(もしくは如意嶽、如意ヶ岳、如意山)であり、大文字山は通称であった。また、古くはこの近辺の山々を総じて如意ヶ嶽と呼んだ(『雍州府志』によれば、東山の頂を如意ヶ嶽と呼んだとある)。かつては如意寺と呼ばれる寺も存在したと伝えられる。なお、如意ヶ嶽の山頂はかなり滋賀県寄りであり、京都市内から視認することはできない(『東山三十六峰を歩く』 p.86)。また、東山三十六峰では如意ヶ嶽と大文字山は区別されていないが、そもそも東山三十六峰の定義自体が不確かなものである点に注意を要す(『東山三十六峰を歩く』 p.20)。〕〔『新撰京都名所図会 巻の1 東山の部』、『東山三十六峰記』、『雍州府志』山川門 愛宕の郡(白川山、白川、瓜生山)、『東山三十六峰を歩く』、『こども風土記』 p.15、p.293〕。 洛外(平安京の外)であるため、照高院御殿跡の他には特に著名な史跡が多いと言うわけではないが、縄文時代の遺跡や石器、縄文式土器も見つかっており、居住地としての歴史は長い。また、京都盆地の東端に位置する、京都の中でもかなりの郊外ということで、少なくとも1880年代には、四条や京極へ出かけることを「京へ出る」と表現していた〔『こども風土記』 p.304〕。 特産品として白川砂という、花崗岩質の白い砂があり、庭園など向けに使用されている。また、古くは「白川女」(しらかわめ)と呼ばれる、女性による花の行商の風土が存在した。 国勢調査を元とした推計によれば、その人口は2010年(平成22年)4月時点で、5660世帯、10270人とされている〔京都市情報館 「京都市の統計情報」 推計人口・人口動態/直近の国勢調査以降の推計結果 平成22年4月のxlsファイル〕〔*> ちなみに『こども風土記』によれば、1955年(昭和30年)の国勢調査では、3426世帯、12962人。『北白川百年の変遷』によれば、1970年(昭和45年)で6224世帯、14452人。〕。 なお、地域の南西部の一部は京都大学の敷地内でもある。ただし、京都大学の所在地は北白川の西に隣接する「吉田」であり、その施設の多くは吉田に存在し、北白川に存在するものは極一部にとどまっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北白川」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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