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北見丸 : ミニ英和和英辞書
北見丸[きたみまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

北見丸 : ウィキペディア日本語版
北見丸[きたみまる]
北見丸(きたみまる、KITAMI MARU)は、日本国有鉄道青函航路鉄道連絡船車両渡船で、姉妹船に日高丸(ひたかまる、HITAKA MARU)があり、ここでは日高丸についても記述する。
北見丸・日高丸は、1946年(昭和21年)7月に運輸省 鉄道総局がGHQより許可を得て建造した青函航路用の車載客船4隻、車両渡船4隻のうちの車両渡船の2隻である〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p114 成山堂書店1988〕。
==北見丸・日高丸建造の経緯==
戦時中より建造中であった、車両渡船 第十二青函丸石狩丸(初代)を含む所謂“続行船”の竣工後をにらみ、日本政府がGHQに出していた大量の新造船建造申請は、1946年(昭和21年)1月にことごとく却下された。しかし、戦災で著しく落ち込んだまま一向に回復しない青函航路の貨車航送能力は、北海道に進駐するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月に至り、一転 鉄道連絡船建造計画が許可された〔山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960〕。 
ここにW型戦時標準船の基本設計をほぼそのまま引き継ぎ〔青函連絡船史p160 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕、戦時中からW型戦時標準船を量産していた浦賀船渠で、引き続き建造されたのが北見丸と日高丸であった。

== 概要 ==
この2隻は1946年(昭和21年)9月と1947年(昭和22年)2月に起工され、1948年(昭和23年)2月と10月に就航した。両船ともデッキハウス設置のない車両渡船で、ボイラーは戦前起工の第四青函丸並みの過熱器付き円缶6缶に戻り、これに伴い煙突も4本になった。 タービンも戦時標準品ではなく、プロペラも互いに外転する通常の形に戻され、船底も二重底にする〔山本煕 車両航送p253 日本鉄道技術協会1960〕等、一応平時仕様で建造はされたが、終戦後間もないこの時期製造の船体や機械部品には、材料、工作とも良好でないものも多く、後年取り換えられた物も多かった〔青函連絡船史p103 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕。
車両積載数は、W型戦時標準船同様ワム換算44両であったが、この2隻も含め当時運航中の全てのW型船では船内軌道長に変化はなかったが、1952年(昭和27年)以降にはワム換算46両積載可能とされていた〔汽船現在表昭和27年3月 日本国有鉄道営業局1952〕。
国鉄部内では、基本設計が共通の 第六青函丸以降のW型戦時標準船と合わせて、「青函型船」〔青函鉄道管理局報(号外)(連絡船型の呼称)1951.8.29.〕あるいは「W型船」と分類され、この2隻だけの分類区分はなかった〔古川達郎 連絡船ドックp89 船舶技術協会1966〕。 一方、ボイラー6缶、煙突4本の車両渡船という括りで、同時期に建造された十勝丸・渡島丸を含めた4隻を「北見丸型」と分類されることもあった〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p118 成山堂書店1988〕が、この2隻は博釜航路用として、車両甲板船首部幅を狭めて凌波性の向上を図ったH型戦時標準船 石狩丸(初代)の設計を基に建造されたため、新造時の車両積載数は2両少ない42両であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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