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北郷三久 : ミニ英和和英辞書
北郷三久[ほんごう みつひさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [み]
  1. (num) three 

北郷三久 : ウィキペディア日本語版
北郷三久[ほんごう みつひさ]

北郷 三久(ほんごう みつひさ)は、日向国及び薩摩国の戦国武将。平佐(現在の鹿児島県薩摩川内市平佐町)領主。北郷氏宗家 10代の北郷時久の三男であり、11代の北郷忠虎の弟であったが、別家を興し、平佐北郷氏の初代となる。また、母である北郷忠孝の娘は、島津義弘の先妻であり、義弘の娘御屋地を出産した後、時久の後妻となったので、三久と御屋地は異父姉弟となる。
== 経歴 ==
天正元年(1573年)日向国都城生まれ。島津氏の有力支族である北郷氏の一員として島津氏の下で、小田原征伐文禄・慶長の役に従軍した。文禄3年(1594年)、忠虎の命により三股(宮崎県三股町)を領する。同年10月、忠虎が朝鮮巨済島において病死したが、前当主である時久は高齢であり、次期当主長千代丸は幼少であったため、島津氏は、島津義久と島津義弘の連署により、長千代丸が17歳になるまで、三久が北郷氏の家督代を務めるよう命じた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の命により、島津氏家中の所領替えが行われ、北郷氏宗家は都城から祁答院へ、三久も三俣から平佐へと移転させられ、都城は伊集院忠棟の領地となった。北郷氏にとって都城地方は、足利尊氏から与えられて以来継続して領してきた地であり、以後、都城復帰が北郷氏の悲願となった。
慶長元年(1596年)、三久は、島津義弘に従い朝鮮へ渡海し各地を転戦した。特に、泗川の戦いでは、三久勢は敵の首を4,146討ち取ったと伝えられている。
朝鮮から帰国後、島津氏と伊集院氏の戦いである庄内の乱が勃発した。これは、北郷氏都城復帰の好機であり、三久は、島津忠恒に従い、長千代丸を補佐し一族を挙げて伊集院忠真と戦った。北郷氏の活躍に対し忠恒は感状を送っている。徳川家康の仲介により乱が終結した後、伊集院氏は頴娃へ移され、北郷氏は念願の都城復帰を果たした。なお、三久は庄内の乱終結後も都城へ戻ることなく平佐を領し、元和6年(1620年)に48歳で歿した。墓は薩摩川内市の梁月寺跡に現存している。
後に、都城の北郷氏宗家は島津氏の命により島津姓に復したが、平佐北郷氏は北郷の家名を保ち、島津氏の重臣として存続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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