翻訳と辞書
Words near each other
・ 北郷 (札幌市)
・ 北郷IC
・ 北郷インターチェンジ
・ 北郷インターチェンジ (宮崎県)
・ 北郷・西郷ふくしコミュニティバス
・ 北郷三久
・ 北郷三穂子
・ 北郷中学校
・ 北郷久定
・ 北郷久直
北郷久秀
・ 北郷仁
・ 北郷小
・ 北郷小学校
・ 北郷小学校札幌
・ 北郷忠亮
・ 北郷忠相
・ 北郷忠能
・ 北郷忠虎
・ 北郷忠親


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

北郷久秀 : ミニ英和和英辞書
北郷久秀[ほんごう ひさひで]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north

北郷久秀 : ウィキペディア日本語版
北郷久秀[ほんごう ひさひで]

北郷 久秀(ほんごう ひさひで)は、室町時代前期の日向の武将。北郷氏3代当主。2代当主北郷義久の三男。
長兄及び次兄は出家したため、三男である久秀が家督を継いだ。永和元年/天授元年(1375年)、室町幕府九州探題今川了俊少弐冬資を謀殺した水島の変の後、了俊に反旗を翻した島津氏を討伐するため、了俊は子の満範貞兼を日向に派遣し島津氏を攻撃した。島津方と今川方の戦いは応永2年(1395年)、了俊が上京し九州探題を罷免されるまで続いた。
明徳5年(1394年)、久秀の外祖父である和田正覚と高木氏が守る島津方の三股(現在の宮崎県北諸県郡三股町梶山城を今川氏と今川方の国人相良氏伊東氏土持氏北原氏が攻めた。島津氏及び北郷氏は梶山城の救援に駆けつけたが、久秀及び弟の忠道は討死し、梶山城は落城した。義久は都城に薦福寺を建立し2人の菩提を弔った。家督はもう1人の弟の知久が継いだ。
忠通の法名は聖安道賢大禅定門。2人の墓は三股町の大昌寺跡に現存しており、町の文化財に指定されている。また、墓の傍には久秀が死ぬ間際に座ったと伝えられる腰掛石が保存されている。
== 参考文献==

*『都城市史』
*『高城町史』
*瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
*『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北郷久秀」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.