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北郷 忠相(ほんごう ただすけ)は戦国時代の武将。北郷氏8代当主。 大永3年(1523年)までは、伊東氏、北原氏、更には新納氏、本田氏らの四方に敵を抱えて長年戦い続け、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都之城と安永城の兵800名で領地を維持している状態だったが、尹祐の急死によって伊東氏と和議を結ぶ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻め、次第に領域を拡大していく。 天文元年(1532年)、島津忠朝・北原久兼と密約を交わし、三軍で伊東氏領の三俣院高城を襲撃。伊東軍に壊滅的打撃を与えた(不動寺馬場の戦い)。 伊東氏はこの敗戦に加え、家中に内紛が発生したことで三俣院の維持が困難となり、軍勢を引き上げた。 こうして伊東尹祐に奪われた領域の回復を果たし、勢いに乗じて新納氏の梅北、松山、末吉などの諸城を攻略すると、都城から三俣院高城に本拠を移した。 天文11年(1542年)には伊東・北原連合軍が再び侵攻してきたが、大楽で撃退した(大楽合戦)。この合戦以降、伊東氏は三俣方面から完全に撤退し、北原氏も野々美谷城を失って引き上げた。 この後さらに北原氏から山田城・志和池城を奪取した北郷氏は庄内(現在の都城市)一円を知行する最盛期を迎えることになる。 永禄2年(1559年)、73歳で没。 == 参考文献== *『本藩人物誌 鹿児島県史料集第13集』鹿児島県立図書館、1973年 *『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北郷忠相」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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