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北野恒富 : ミニ英和和英辞書
北野恒富[きたの つねとみ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
: [の]
 【名詞】 1. field 
: [とみ]
 【名詞】 1. wealth 2. fortune 

北野恒富 : ウィキペディア日本語版
北野恒富[きたの つねとみ]
北野 恒富(きたの つねとみ、明治13年〈1880年5月28日 - 昭和22年〈1947年5月20日)とは、明治から昭和前期にかけての浮世絵師日本画家、版画家。本名は北野富太郎、夜雨庵とも号した。
== 来歴 ==

=== 少年時代から挿絵画家となるまで ===
石川県金沢市十間町で加賀藩士族・北野嘉左衛門の三男として生まれる〔『大阪現代人名辞書』大正3年刊。〕。名は富太郎。夜雨庵と号す。少年時代から絵を描くことを好み、家にあった掛け軸の絵などを模写して楽しむ。小学校を卒業した明治25年(1892年木版書画の版下製作業者・西田助太郎に入門、技術を研修するかたわら南画を学ぶ。その後は何人かの木版画彫刻師の門下を転々とし、絵草子屋に勤めたりもしたが長続きせず、明治30年(1897年)には彫師、伊勢庄太郎のもとで木版下絵を描く修行を重ねたのち、彫刻師中山駒太郎に従って北国新報に入るものの、ほどなく画家として立つべく大阪に移り、明治31年(1898年)、中山の紹介により月岡芳年門下の稲野年恒に入門。明治32年(1899年)11月には月刊新聞「新日本」の小説挿絵を描き、挿絵画家としてデビュー。この時期には仕事をこなすかたわら洋画の画法の研究にもいそしみ、当時、尾崎紅葉の『金色夜叉』や小杉天外の『魔風緑風』の挿絵を担当して人気を博していた挿絵画家・梶田半古の作品にも触発され、後年の画風の素地が形成されていった。また同時期に野田九浦の知遇も得たが、北野を彼に紹介した信近春城は大阪画壇の組織化を早くから試みていた人物であり、後年北野がとった同様の行動には彼からの影響が窺える。明治34年(1901年)には藤村歌と結婚し、同年10月に大阪新報社に入社、小説挿絵担当となり、翌明治35年(1902年)には長男顕雄が誕生する。顕雄は長じて日本画家の北野以悦となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北野恒富」の詳細全文を読む




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